domenica 26 aprile 2009

AMORE & ANIME 愛 の 魂 アニメ


Amore e Anime per la gente semplice !!


Un fenomeno che è capitato in Giappone qualche anno fa, dopo le bombe Israeliani per una vettura a Gaza e West Bank nel 2006, durante la contestazione palestinese appare una bambina di Gaza con un cartellone di Haruhi!!



写真は下のサイトAFPBBNewsから、ガザ市で2006年12月14日、「子どもを殺さないで」と書かれたプラカードを手にデモに参加する少女。(c)AFP/MAHMUD HAMS

http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2155850/1174867#blogbtn

Haruhi è il nome della ragazza (protagonista di manga & anime giapponese di ‘La malinconia di Suzumiya Haruhi’ ) e la sua danza HARUHI DANCE era di moda.

http://temple-knights.com/archives/2007/08/20_6.html

allora i nipponici hanno cercato un ragazzo Israeliano che balla Haruhi Dance : ecco !!

http://www.youtube.com/watch?v=WP403FFKO20
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=VzBAp7jkozw

Suo modo di danzare non è di massima lode ma per i giapponesi sembrava che lui contribuisse alla riappacificazione tra Palestinesi e Israeliani !? e poi gli internauti nipponici proponevano di creare una zona sacra neutrale a Gaza per amanti di manga & anime giapponesi e cosi si possono incontrare fan Palestinesi e Israeliani senza bombe o missili, peccato che non si sia potuto realizzare.

E poi tanti altri paesi seguivano questa Haruhi Dance.

http://www.dailymotion.com/search/haruhi+dance/video/x5s57z_haruhi-suzumiya-conquerit-le-monde_music

Il mondo ride dei nipponici, la loro piccola politica e la grande stupidità, dopo WWII i potenti vincitori usavano una strategia (sport, cinema, sex) per facilitare controllo, per disgrazia questa tattica ha avuto gran successo in giappone.

Pero a volte molti ci amano segretamente. ‘ farsi amare ’ è una cosa preziosa molto bella e piacevole.

E anche un po' di rispetto agli abitanti precedenti è una cosa bella, per esempio costruire le case per gli scarafaggi, ogni casa giapponese ne ha una, esseri viventi che abitavano sulla terra millioni anni prima di noi…... ma questa è un'altra storia.

martedì 21 aprile 2009

AMORE ODIO   愛 と 憎悪 

憎まれても強く生き続けるか、愛された思い出に生き残るか?

ユダヤ問題日本問題

イソップ物語のなかに鳥の仲間だと言ったり動物の仲間だっと言って最後には両方からつまはじきにされるコウモリの話しがあった。私が小学校の時にクラスで喧嘩があり、どっちの子も好きだったので何とか仲良くさせようと自分なりに立ち回ったが、後で「泉ちゃんコウモリみたい」と言われて哀しくて泣き出した思い出がある。

今も又同じ、むなしい気持ち。今メディアでは盛んにホロコースト哀悼(繰り返し何かやってShoah、Shoahと連呼。私は昭和に青春時代を送ったのでちょっと嫌な感じ、ホロコーストじゃだめなのかな。おまけにイスラム原理狂の自爆テロカミカゼと呼ぶ、自爆というちゃんとした言葉があるのに)

アラブ人もユダヤ人も一緒に地球の上にこびりついてる小さな動物に変わりない(私も含めて)、誰も選民でも無くそれ以下でも無い。私は単純なので、自分が肌で経験しないと納得出来ないど古いタイプ。アラブ人からは安月給でせっかく買った車のタイヤをぶち抜かれたり、車体にいたずら書きや窓を壊された経験があり、どうも彼らを好きになれない。イタリアもフランスもアラブ系の犯罪者はけっこう多い。だからと言って平然とガザの住民虐殺、他にテロやゲリラ自爆行為等何もかもアラブやムスリムのせいにする巨大メディア操作はおかしい。アラブ諸国は歴史文明の進化がちと遅れているので、彼らに対し寛大さや期が熟すのを待つ忍耐時間も必要なのではとも思う。自分の事を考える時間も無く、がむしゃらインスタント西洋近代化した日本の過去を真似をする必要もない。

ユダヤ人といえば学生時代に仲良しだった米国の友人が20年後に突然「実は私はユダヤ人なのよ」とか言い出す始末。おまけに私を見て女独りでも子供が育つと勇気ずいて、テレアビブに行き子供をつくって帰ってきた、、何たる事。両親はWWII以前にドイツにいたがナチスが勢力を拡大してくるのを見て危険を感じ、米国ミシガン州に早めに逃れて助かり、おかげで後年に彼女が生まれた。そういう私の父も自慢はヒットラーからの手紙を持ってる、ヒエーッと、よく聞くとSSからきた一刻も早くドイツから出国するよう、との召喚状、要するに国外追放令(今だから自慢になるけど)。若い時にベルリンにいて多くのユダヤ人の友達ができ、ガールフレンドもユダヤ人だったとか。おまけにヒットラーの政策にジャーナリストとして「ちりちり毛の友だちが可哀想だったんだ」と言う事も手伝って反対論を展開,当時のSSに目をつけられてしまった。それで父はパリに一旦出国し苦労の末ようやく日本に帰国した。今思うと強制収容所送りでなく助かった、多分日本人だったから国外追放ですんだのだろう。Auschwitz などに送られていたら私は生まれてこなかったのは確か。父の癖で傲慢なもの等何にでも反抗する、ベルリンのゲシュタポに平気で対抗した「日本男子ここにあり」てな気力で収容所にいたらさぞ反逆行為をしただろう、ますます私の存在は怪しくなる。ちなみにユダヤ人のガールフレンドは父を頼って日本までやって来たが、父よりずーっとハンサムで紳士役俳優の斉藤氏と結婚し、、彼女は幸せに日本で生き延びた。他にも色々なユダヤ系ドイツ人達の話しを子供の時に聴いた。もっとも父は誰にでも反抗する性質のようで、面接の日本憲兵に対して「君のサーベルの先には錆がついてる」と言って憤怒させ兵役免除になった、理由は「自由主義者を兵舎に入れると、ろくなことない、」と言われたとか。戦争後は占領下の日本で栄養不足で肺炎になった姉にペニシリンが必要で「マッカーサーの処に抗議に行く」と、本当に行ったそうだ、、「引き揚げ船の上で死んだ子供より(船から遺体を海に投げた)日本に帰国後に死んだのでまだまし」と母のあの戦争については話さない思い出、そして黙って去っていった。ドイツでSSから国外追放にあった後はジャーナリストを諦めビジネスマンに変身し日本企業に勤めシナに転勤。天津で駐在中、日本兵が人力車のシナ人に金を払わず蹴っているのを見たり「日本帝国軍人が」「我ら日本人は」「日本帝国は」と言っては威張って生活するのを見て、にがにがしく「田舎っぺども」と冷たくみていたそうな。敗戦が決定すると、日本軍人の家は石が投げられ、火がつけられ報復された。父は従業員の給料を払うのに母の着物や家財を売り払い(日本からの銀行送金など切れたまま)なんとかつないだ、、これを知っているムスリム系シナ人の社員達は感謝して私達所長家族を守ってくれた。父も母も軍隊軍人ぎらいだったのが私に感染してしまった。国際社会と日本の現実の姿をよーく知っていた父は良い物を作って世界に売り歩く路が日本にとって一番あっているのを肌で解っていた。

私は生まれてはいなかったが、あの太平洋戦争はメディア、国の広報やP.R,マーケッテング欠如で日本は敵に回した国々よりずーと遅れて貧弱だったと言うか全く対策が皆無だったと思える。本当のビジネス人間にとって戦争は一番悪い素材であるべきで、国という抽象的な物をだけを誇りにして振り回し外の人々を殺せる思想組織(軍隊軍人)を認めたくないな。今は戦争をビジネスにする邪悪さ、あきれて物が言えない時代になった。戦争で苦労の末に亡くなった人々も墓場の影でさぞ怒っている事だろう。

ドイツやシナ何処にあっても外国に住む日本人への日本政府の配慮&情報不足、世話や保護等何もしない現実を見て、父は日本外務省の出先機関を内心批判していた、トイレに行きたくなった時だけ大使館に行ったらしい。
(注 : 戦前の話し、、、)

そんなで私の親友の彼女とはお互いに留学生同士、二人でよくMilanoのスカラ座にオペラを見に行った。年月がたち今仲良しの友達も又日本大好きなユダヤ系夫婦である。

だからと言って最近のユダヤのやり方を黙って見逃す事は出来ない、「いや〜それはユダヤではないシオニストだ」「いやイスラエル国家とその諜報機関のせいだ」「白人アシュケナジー系多国籍企業の陰謀」「ハザール帝国生き残りが悪い」「一部ユダヤ富豪家族のしわざだ」「米国と欧州のユダヤ覇権狂人のせい」等々、あれこれ色々な答えが返ってくるのだろう。まあ何処かに本物のコウモリがいそう。今では世界の何処かににテロ事件が起きると、、あっユダヤ又やってる、へんぴな場所や国でも、あれっ奴だっミサイル発射、あっ又もさっどんな場合でもユダヤの名前が飛び出し始めている。

一般的ユダヤ系の人達には割が合わなくなって来ているのでは?

昔證券会社に勤めていた時、社内のユダヤ系スイス人トレーダーが言う「良い不動産物件を探す時一番大事なのは使用人との出入口が完璧に別れている事」いやな趣味だ。「今日はMr. Guggenheimから電話があるんだぜ」と繰り返す、一度言えば解る、やはりミスターとの商いは聴き苦しい。常に自分が他より上にいる事が人生の目的のようだ。後年インサイダートレーディングで逮捕されたとの噂、さもありなん、、彼以外にも正反対の生き方,考え方で嫌なユダヤ人にも沢山出会った。馬を買いたいというスイス人社長とルガーノの田舎にある競売場を訪問した、野外で食事の時テーブルには誰かが残したのか手付かずのストゥーデル、私に「食べる?」と聞く、「ヘーッいやだッ」私の代わりにこのユダヤ人が平気でたいらげた。彼の運転するジャガーに乗った返り道、これだからユダヤ人は生き残れる、日本人の私は残れないなァ〜と実感した。実際私は相変わらず独りで貧乏、人が見ないブログを書いている、彼は益々富豪になっている事だろう。
     
金融世界権力も含んで多いに論議された方がよい、「だって金融業は許されたので」と金融専門知者になってしまった歴史的な因果は解るが、ここでも今ではあまりにも横暴な商いが、ユダヤに対し反感反発の空気も作り出している(ひどい被害にあったアジア)、やり過ぎにはもっと深い検討が必要。「過ぎたるは及ばざるが如し」もう少し科学的な検証とか(50年100年とこのやり方を続ければあのホロコースト再来を止めるのは難しいのでは)謙虚な反省の気持ちがあれば助かるのに、いつもいき過ぎやり過ぎの連続史(この凝り性なところだけは日本人にも少し似たところがある、やはりあまり完璧を目指すのは良くないかな〜)コントロールし押さえつけることばかり考えて、自然に愛されるには、、へ 思いが至らない。

私が住んでいるパリの通り仏幼稚園や小学校の壁に黒い標識があり「この学校から、沢山ユダヤの子供達がビッシー政権の下でホロコーストにあい殺された云々、忘れてはならない」と書かれてある。11区、19区等、実際には生徒はアラブ人、アフリカ人とアジア人が多いにもかかわらず、1999年や2006年付で最近取り付けられた様子。これも私にはやり過ぎに見える。ユダヤ人は既に仏人なので、見えない地球規模のユダヤ帝国の覇権への助走だろうか。子供達や若い親達にどうしておしつけるのだろう、彼らに罪は全く無い。息苦しくなるだけの効果しかない、かえって世界金融や多国籍ユダヤ企業にひどい目にあってる人達には,未来へ反感と不信を募るだけで、いい案とは思えない。


Alla memoria degli studenti di questa scuola deportati tra 1942-1944 perchè sono nati ebrei, dei vittime innocenti per nazista di Vichy governo. erano oltre 1200 bambini dei quartieri di 11, sterminio nei campi della morte.  29 aprile 2006.
non dimenticare mai.

このまま今のままでは世界は傲慢な一部のユダヤの参謀に操作されユダヤ系の普通の人々にも危険な火の粉がかかるだろう、何しろ危険すぎる。同じユダヤ人が先に考え方生き方あり方を変える必要があるのではないだろうか,他のユダヤ系の人達のためにも。

地球のその他大勢は良いユダヤか、悪いユダヤ、と分けて考えてくれない。

今では世界の透明ユダヤ大帝国の覇者となり、手に入れた巨大権力に酔って傲慢になってしまった。危険が待っている彼らになんとか日本が助けられないだろうか、単純な日本人の助言など聴く耳は持たないのだろうか? 

今度は私がユダヤから追放状をもらうのかな? 歴史の巡り合わせなのだろうか又「コウモリみたい」と泣かされるかな? 


venerdì 10 aprile 2009

CORAGGIO DI VIVERE   生きる勇気

1991年に RAI 2 で放映された番組「生きる勇気」

EMANUELA FALCETTI が紹介役で4月頃に放映されたTV報道(知られていない映画が沢山紹介された)番組「CORAGGIO DI VIVERE」を毎週見ていました。何故か?何か身につまされる映画ばかり選んであったからです。どんな?主人公はほとんど問題のある子供や少年少女達の物語でした。印象に残っているのは、カナダで制作の数作品で、ハンデイキャップのため車椅子で過ごさなければならない子供が独り母親に送られて施設に入れられます。まるで独房のような部屋でアラーノ犬に見張りされ、苦しみつつメモをとるシーンが目にやきついて離れません。又別の映画では主人公の少年はキヤンプ場でいじめっ子に追われて大岩の間に板ばさみに会い解決方法としてバイク上手なのでモーターバイクでいじめに勝つ話。そんな問題児のエピソードの数々、全くオンパレードそのもの、何の、ま、それは言いにくいのですが、何と言うか、ホーッ、日本人として湾岸戦争で神経が痛んでしまい、、この番組に出る本当にホッとする様なこれらの映画が心にしみこんだからです。随分この番組で放映された映画に慰められました。

この番組担当者Riccardo Bonacina記者 はエマヌエラ ファルチェッテイと共に賞をもらいました。この後も同じ様な内容番組をくみヴォロンタリアの世界をイタリア中に、このTV番組を通して普及させた様です。その後息の長い優良な報道番組になっていきました。

Dall'aprile 1991 è in Rai dove crea la prima testata di informazione sociale,
"Il coraggio di vivere", che per la prima volta dà voce al variegato mondo del volontariato e delle emergenze sociali. Carlo Freccero ha definito il programma " il più riuscito esempio di teledemocrazia".
In quattro stagioni televisive (dal ‘91 al ‘94), " Il coraggio di vivere" ha prodotto 35 puntate settimanali. (da wiki)
 
(fotoは雑誌バイクの人il Centauro -amici della Polizia Stradaleより) 
                 

          + + + + + + + + + + + + +
                 
          2009年4月6日地震だ〜

この報道番組でそうとう人気が出たらしく、彼女 Emanuela Falcetti は現在 RAI でオピニオン批評家としてあちこちの番組に出演しています。こんな事を書いていたらリアルタイムで6日の明け方3時頃アブルッツオのラックイラ,オンナ等にM6.3の地震が起きました、多数の死者がでた時に彼女は「今は何も言わずに地震の犠牲者達の為に自制していますが、きっともうしばらくしたら、必ずこの地震による惨事の責任者をたたきます、、メディアが許さない、、待ってて下さい」と宣言していました。期待しましょう、勿論まっさきに Marco Travaglio が伊政権を批判しています。Berlusconi首相はブリアンツアの土建屋成金です、彼はMilano dueと言うNew Cityを建設したり、又新聞メデイア等の権限も握っています。もっともミラノ2は日本人が沢山住んで利用していました,私は中にある Euromercatoが駐車に便利で何でも売っているのでこの大スーパーマーケットによく買い物に行きました。

Marco Travaglio 記者の弾劾意見
http://www.youtube.com/watch?v=pQ7eSJRk02E


10日に国葬があり205の棺、もっとも死者は今293人です。オンナという村も全壊に近く、小さい子供が沢山犠牲になりました、親が助かって小さい子供が死ぬのは悲劇以外に地震への心理対策が少ないのが見えます、心が痛みます。やはり地震の予備知識や避難対策に不備がありますし,勿論耐震建築のいいかげんさも犠牲者が多い原因、ここにもマフィアがからんできています。イタリアの一番の建設企業はC&S社ですが、以前この会社の責任者がマフィア関係者として、捜査された事があります。ラックイラの大学生宿舎のビルもビスケットのように崩れ落ちたので多数の大学生の犠牲者が出ました、鉄筋のかわりに砂のビルを建て続けたのです。この宿舎の住人だった女学生は壁がうすく上も横も音が筒抜け、それでこの地震以前にすでにあった小地震に恐怖を感じて宿舎から出たそう、後日この大地震が起きたとMichele Santoro の報道番組「ANNO ZERO」に出演し告発していました。計画的な対策と予備訓練がこれから実践されるでしょう、、マフィア系建設会社の責任者、地方や中央の政治家達が逃げ切らないでくれると良いと思っています。

地震学者Giampaolo Giulianiの証言 4月1日貼
http://www.youtube.com/watch?v=WieaAPrQEN4

Giampaolo Giulianiの証言1
http://www.youtube.com/watch?v=dHq4TtzBB2M&feature=related

Giampaolo Giliani の証言2
http://www.youtube.com/watch?v=IdTHHIQnt40&NR=1


いつまでも現状のままではダメですね、イタリア社会の変化を多いに期待しています。検察も動き始めているので、良い方向に歩いて欲しい。


lunedì 30 marzo 2009

SALON DU DESSIN CONTEMPORAIN PARIS 2009

今日は テンポ レアーレ 2009年3月

salon du dessin contemporain Paris 2009

の展覧会があったので見てきました: 下は公式サイト
http://www.salondudessincontemporain.com/?menu=&page=main〈=fr

沢山ありすぎ、私にとって面白かった作品を少し写真に撮ったので貼ります


現代企業の大犯罪である薬の問題、有色人種を減らす目的のエイズ、サルス鳥インフルエンザ実験場、薬品企業の利益のために利用される後進国、、、
だけでなく私達も利用されて実験動物に近い(もしガンになっても絶対薬は飲まないぞー)、躁鬱用の薬品に殺人作用を引き起こす副作用があるとか、これを操作、、自由に治安不安定の町や社会現象を作り出せる、むむ、、、近頃おきる各国のピストル乱射殺人事件、、怪しい、、臭い。
 
Jeanne Susplugasの作品。(galerir schirman&de beaucé)






















女性も利用されている、男性ファッションデザイナーはほとんどがホモ、だからだろうかモデルは常識のある女性なら買わない高いヒールの靴をはいて歩かされる、見ていて心が痛む,もちろん女性の健康に良いはずがない。(この作品を見ながらぶつぶつ)







下は有名なMattaの息子Ramuntcho Mattaの15cmの黒い手帳に描かれた面白小作品。右端のデヴィル君が可愛いい  (galerie anne barrault)







          
これは何となくおっかないスケッチがつづくー Nalini Malaniの作品。
(gallerie Lelong Paris)
















ちょっと解り易い作品、じーっと見つめて下され、ねっ、写真がいまいちで失礼。皆さん、聖書、福音書、イザイヤ書、タルムード、カバラ等読みませう、、

















さ大変だー 、私は若くないから読めない、時間が無い。インスタントに「ヘブライの館」のサイトを見て了。







あれこれ見ながら楽しんだ、、終わったところで,中国人のアクセサリー問屋が並ぶ Rue Temple 近くのバールに入ってカプッチーノを飲む、アートの限界はどこまで? とか色々考え友だちと議論、、ふとイタリア人はどんな表現するかな?しばらくイタリアから離れてしまった、、なつかしい。

と意地悪な人が「今イタリアじゃ、ナポリで子供が野良犬の群れに噛み食われて死んでるよー」と横から捨てゼリフ。いやーな奴じゃ〜 これで友だちか〜っ



giovedì 26 marzo 2009

SONDAGGIO ESISTE ITALIA ? Aiuto, dove sarà Italia ?

mamma mia !! cari lettori italiani, aiuto !

mi è arrivato dalla una rivista Limes-web che leggo, un sondaggio ma essendo una giaponese non credo sia giusto rispondere, mi aiutate al posto mio a rispondere questo sondaggio ! grazie alla collaborazione e arigato.


partecipate al sondaggi, Limes online !



みなさま御協力ありがとうございます、いつも感謝しています。



Limesサイト内 Marco Hamamの Rubrica Fukahaアラブジョーク

A proposito di Gaza

上のサイトの風刺漫画




martedì 17 marzo 2009

MADAME SADDAM HUSSEIN サダム フセイン夫人


湾岸戦争考1991年2月28日にバクダッド空爆終了一応終戦

湾岸戦争ペンタゴンより表の出演者(真の参謀は裏に)
Schwarzkopf & Powell Autostrada della Morte
死のクウェートハイウェイ
  

死守するといわれたサダムのBaath 親衛隊は現代最強の軍隊とPaolo Garimberti も真夜中のTVトークショウで何度も言っていた。しかしバクダッド空爆後、思ったより無抵抗で降参したイラク軍その姿がTVに出始めた。カメラに写し出されたゴムぞうり、これが湾岸戦争でイラク兵が残した軍靴の事実の姿。イタリア人は多少あきれ顔、イラク兵が以外と簡単に捕虜になり砂漠で座り込んでいる姿を見ながらつぶやく「おれんちの田舎のおじさんに似てるな〜」、クエート死のハイウェイには気化爆弾等で炭のようになったイラク兵の死骸と焼けこげた戦車やトラック群、、路上にえんえんと続いている。皆複雑な心境になっていった。


写真はイラク攻撃後捕虜になったイタリア空軍Tornadoの操縦頭 Maurizio Cocciolone キャプテン。そして戦後 Giammarco Bellini 少佐と共に 無事に生きてイタリアに帰還( TVで24時間コッチォローネコッチォローネと大声で叫んでいたEmilio Fedeの声が今でも耳に残る)その後米国NYで行われた勝利?パレードに参加して伊の人々は大きく胸をなで下ろしました。なにしろブラッキア海軍大将もコッチョローネキヤプテンも同じ様にこの戦争の意義に疑問を持った発言をしていたのでブッシュ政権に対して若干ヒヤリとして心配だったのです。もっとも伊国民は皆本心は(??)を抱いた複雑な心境でした。

Capitano Maurizio Cocciolone(RAI TG2よりのFoto)

Caso Ammiraglio Buracchia "Questa guerra si sarebbe potuta evitare se solo avessimo usato un po' più di saggezza". 湾岸派遣の伊海軍ブラッキア大将は「この戦争はもう少し知恵を使ったなら回避出来たはず」と公言して解任させられた事件。


SADDAM vs PAPA GIOVANNI PAOLO II vs BUSH papà
サダムフセイン 法王ジョヴァンニパオロ二世 ブッシュ父 三つ巴の戦い

Madame Saddame HUSSEIN 夫人の はなれ技

バクダッド空爆後いき処を無くしたサダム「ヴァティカンが亡命引き受ければいい」と皮肉った案が伊メディアに飛び出しました。法王ジョヴァンニ パオロ2世はイラクの外相テレク アジズとも面談して、イラクを心配していた。何とか戦闘を回避努力も虚しくバクダッド空爆は続きました。そのうちサダム夫人がいなくなった、、「何処だ?」「何処に行った?」 、 、、数日後に病人を装い極秘で日本を訪問し、夫の亡命をリクエストしたとのニュースが出廻り。この情報を日本外務省は肯定したとイタリアのTV NEWSが伝える(ただし夫人が極秘来日し旦那の亡命依頼をした事のみで、それを日本が承諾したかどうかは不明だった)湾岸危機から湾岸戦争中そしてその後と、国際社会から、からかわれ失笑され続けていた日本がぽっと昔のサムライにもどった如く伝わってきた話しは、サダム夫人の勇気ある姿と共にかっこいい地味なテロップ ニュースでした。

Saddam Hussein con la moglie Sajida e figlia Raghd

 サダムフセイン Sajida 夫人(茶髪)と娘の Raghd

(foto dalla La Repubblica)

湾岸戦争中に私の驚いた事の一つは、米軍戦闘機がイラク爆撃用ミサイルを投下出来ずくっつけたままイタリアに帰路飛行中との速報ニュースが入った時でした。メデイアは「どうするんだ」「おい何処に飛んで来る?」「何処でミサイル投下するのか?」「アンツィオ方向に飛んでくる?」「ウォ〜怖い」と恐怖の声................「今は第二次世界大戦じゃないんだ,ANZIO 戦じゃない、何を怖がる」「安心しろ海に落す」とこの反響に対し落ち着く様に再三忠告していました。国民一同皆夜更かしの毎日のなかで、ひときわ恐い闇夜でした。勿論バクダッドに投下されるべきだったこのミス ミサイルはアドリア海に落されました。

わっイタリアの国民の中にはこんな潜在意識の恐怖がまだあるんだな〜と驚きと一緒に哀しい気持ちを呼び起こされました。私にとってイタリアはヨーロッパの一員即ち白人世界、要するに絶対に原爆は投下されない国と言う強い確信があったので、イタリア人がこの様な恐怖と懐疑をたとえ一瞬でも抱いた事自身がただのミサイルにしても不思議で驚きでした。イタリアも第二次世界大戦の傷はまだまだ深いんだ.....と考えさせられました。


ところで米国を見ていると過去の日本との戦争経験にそうとう強いインパクトを受けた様子。この湾岸戦争後のNYでの凱旋パレードの映像に日本敗戦と大きく書かれた新聞や太平洋戦争終了後のNY凱旋シーンが操作されて入れてあった。よっぽど嬉しかったらしく思わず本音(日本から金を巻上げ、侮辱し放題、地球村八分に成功)がでたのかイラクと戦っていたのを忘れて日本と戦って勝ったみたいな雰囲気(内心たしかに広報外交戦で負けたと思ったが、こうも喜んではしゃいでいるのが、ちと不愉快)。ペンタゴン他の軍組織やCIA等諜報機関に勤める人々には、いざ日本と争うと言う時に強い変な作用があるらしい。あの日本との戦いと聞くと妙に姿勢がしゃきっとすると言うか、ピンと直立するみたい。多分太平洋戦争後にめんめんとし続けた各戦争がよほど汚なかったか、陰謀そのものの戦いだったからか、あまり誇りを持てない経験みたいで余計日本との戦いについてこの先何か裏があるのか、やはり真剣だったせいか自然と気が引き締まるのか。何かいつまでもいい迷惑な感じ、、


sabato 7 marzo 2009

FESTIVAL DI SANREMO 1991 サンレモ音楽祭

SANREMO音楽祭の季節 は毎年2月 サンレモ フェステイヴァルのなかで歌われる歌詞はいつもとても感動的、特にこの年は湾岸戦争中なので、よけい人々は心が歌を必要としていました。(2009年はボノリスの司会でCMにも彼が出てうんざり、でも視聴率はよかった)。 

1991年サンレモ音楽祭の一位はリカルド コッチァンテ

Riccardo Cocciante
1. Se stiamo insieme 「一緒にいる場合」

"♬ Se stiamo insieme ci sarà un perché
もし一緒にいるなら、何故か理由があるはずだ ♪
e vorrei riscoprirlo stasera.  ♫
それを今宵、探し出したい
Se stiamo insieme qualche cosa c'è  ♬
もし一緒にいるなら,何かある
che ci unisce ancora stasera.
今宵又一緒になれる     ♪
Mi manchi sai, mi manchi sai...aaii... "
あなたといたい、あなたといたい、、ああ ♪♪

3位にマルコマジーニの「何故それをする」
Marco Masini
3. Perchè lo fai

下位にラフの「今 神はいない」が入っています。
Raf  (Raffaele Riefoli)   オフィシャルサイト http://www.raf.it/
Oggi un Dio no ho

Sentivo solitudini l´ulivo del Getsemani
E accendersi le voci dentro la città. Le croci che non porterò
oggi un dio non ho.
Madonna per la via non andar via che mi perderò....
...lascio il gregge io...E la tua legge qui
Non rispetterò resta dove sei. Negli abissi miei non ti cercherò...
...Sentivo moltitudini l´arrivo di altri popoli.
E accendersi bandiere feste inutili, campane Che non suonerò...
..Madonna madre mia. Non andar via che io morirò e...
...sono uomo anch´io...Dentro un vortice.
Nuvole scoppiano e il sole cade giù
E ho bisogno di aiuto e non c´è. Che da vivere, esistere
Giorno dopo giorno ancora non mi arrenderò......
...sono morto anch´io se......E nell´Amore si io rinascerò
Chissà dove sei negli abissi miei ti ritroverò, ma...

ルーチョ ダッラの「狼に気をつけて」も入り、コミカルで楽しい曲。
Lucio Dalla
Attenti al lupo

今年2009年のサンレモ前に私の好きな曲がリバイバルで流れたので一緒に載せちゃいます。
Fabrizio De Andrè

ここからはイタリアの歌手が1991年以前に日本語で歌って大ヒットした思い出の歌、France & American POP歌手も日本語で歌っています、ついでに昔の歌も一緒に聞いちゃいましょう。

この歌手達に共通な事は、何か?? あてて下さい、簡単ですね?

Claudio Villa
夜明けの歌

Giliola Cinquetti

Mina
Milva

Salvatore Adamo ( Comiso- Sicilia 生れ)
雪が降る
サン トワ マミー


Connie Francis ( 彼女の本名はConcetta Rosa Maria Franconeroで おじいちゃんは San Giovanni di Gerace -Reggio Carabriaの人)
可愛いベイビー
大人になりたい
http://www.youtube.com/watch?v=IIbYvmkZzpg&feature=related


Tutti questi cantanti hanno una cosa comune, indovinate
un po' ?? facile no ?


60年代のカンツォーネは大きくなりたい願望が多い。戦後占領のために着いた時マッカーサーは「boys and girls」と言い、日本人は子供扱いされたとぷりぷり怒ったとか。日本にとって大事な時はわざとポケットに手をつっこんだままの無礼な姿にイライラさせられ、おまけに日本国民は12歳と言い残していく。(最近TVで終戦直後マッカーサー達の占領ジープを迎えるため道端に日本兵が何十メートル毎に直立している記録フィルム的映像を見た、立派にきちっと立っていたが 背中を米軍にむけていた !! 演出編集か ? でも吹き出した)

あれからずいぶん年月がたち湾岸戦争後パパブッシュが日本訪問から帰るとベビーサークルに入った赤ちゃんに絵本を読む映像を世界にくばっていたが、そろそろ青年になっているはずなのに、なんと乳児とは 、、どういうこっちゃ。