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sabato 16 gennaio 2010

JAMES BAKER   日本を地球八分に、、 

 
1991年5月   MAY DAY !!   MAY DAY !!

James Baker の政治外交政策術はみさかい無く下方を狙う事で有名でしたが、こうまで、、とは、、  

(下の2写真は ラ レプッブリカ紙 1991年5月7日火曜日付)





( foto : 7/05/91. I fantasmi della guerra sulla strada della morte - Renata Pisu )

クエートハイウェイに延々と続いたイラク軍の残酷な逃走遺骸をレナータ ピズー記者が報告する。又そのイラク死者のシーンの次は(TVニュース)星条旗の真ん中にマリリン モンローが印刷された旗をふって喜ぶ偽クエート青年が映っていた。あまりの悪趣味で吐き気がおきる。

イタリアメディアでは『米国は昔から敵の死者数や損害度に対して無感心な国である』と言う。

これで私は,ハハ〜ンと思い当たった、私の家も焼けた東京爆撃空襲や広島、長崎の原爆投下が未だにあたりまえと言い平気なのだなあ〜


ジェームス ベイカー湾岸戦争中は米国と中東を往復し政府外交を完璧に実行。 陰で広報活動も完璧に、


       
James Baker の陰謀『 オッ いいアイディア 浮かんだ〜 !! 』
『何処かで局地戦争?』

ベーカー 曰く『 湾岸戦争 !! 』『 これぞ待ってたッ !! チャンス !! 』
          
『 Umiliare Umiliare Umiliare !! " JAPAN " !! 』

『 日本を侮辱せよ !! 』
  
湾岸戦争 裏でメディアに響いたべーカーとブッシュの広報作戦の数々、、

総督の胸の内を了解した下僕達が,その後見事に活躍して成功させます、、総督の最終決定は、日本の弱みを狙う、何が不得意だ、戦争体制が崩壊して有事の整備が不足、局地戦を起せば勝てる、日本の総体的な弱体化、何でもいいから恥をかかす事、それでさまざまな工夫が生まれたのでは、、

今は陰謀と言う言葉がよく使われますが、私には何か沢山の意味が含まれる様な気が...

陰謀とは 陰の企み
     陰気な考案
     悪意の意図で行う作戦 
     される相手にはありがたくない戦略
     成功しそうな悪辣な提案
     悪質な企画
     正当でない策略
     前例のない罠
     証拠が残らないアイディアと実行   
     等々


厳しい年にならない事を祈って .. .. .. .. 迎春

venerdì 18 dicembre 2009

GUERRA DEL GOLFO-AMORE E ODIO 愛と憎悪     

IGOR MAN と JENNIFER JONES 死亡ニュース

このブログのモチーフである20年前の状況をメモ書きしていると、ピョコンと目の前のニュースに私が書こうとしている同じ人物が出て来る時がよくある。

IGOR MAN イゴール マン(9/10/1922 - 16/12/2009)

今回も湾岸戦争当時私がよく見て参考にしていたRAI TV深夜トーク番組の話しをしようと用意していたらこの番組のメンバー PAOLO GARIMBERTI と共にイラク国内、サダムの政権解説や湾岸戦争是非論争をしていたジャーナリストで中東アラブ問題に詳しい IGOR MAN ( 本名 IGOR MANLIO MANZELLA ) が18日に87歳で死亡のニュースが流れてきました。

Vatican Archivio の中にある Jubilaeum DD2000 のTERTIUM MILLENNIUMにあった彼の記事GESU CRISTO Il volto dell'innocente negli orrori delle guerreより一部抜粋しました。

Convinto, come sono, che nessuna guerra sia "giusta"
anche se qualcuna è imprescindibile...

どんな戦争も正しいものなどは無いと確信している、
(略)
Una volta la società accettava la guerra "perché la guerra risolve". A quelli della mia generazione insegnavano che la guerra era un "male necessario". Oggi è diverso.
昔「戦争で解決する」と社会は戦争を認めていた。私の世代には戦争は「必要悪」と教えられてきた。今は違う。
Mi dice un Cardinale-Pastore, oggi tutti hanno capito che la guerra non risolve nulla, dà solamente la medesima illusione dell'intervento chirurgico su un organismo mitragliato dalle metastasi d'un tumore cattivo. «La pace, invece, fermando la corsa della morte, salva la vita, dona la speranza della giustizia».

(略)
Già, l'Iraq. 15 di febbraio del 1991: alla Tv di Amman lo speaker piange. Passano sul video le immagini della strage nel bunker "non intelligente" centrato da una implacabile "bomba intelligente".
既に1991年2月15日、アンマンのTV解説者は泣いていた。Video にはバンカー防空壕内に落下した " bomba intelligente 利口な爆弾 "と言われた " non intelligente 馬鹿爆弾 " の爆撃惨殺の映像が流れていた。 

"E' un crimine contro l'umanità, hanno colpito un rifugio con centinaia di donne e di bambini. Fermate il genocidio", singhiozza il conduttore. E' il telegiornale delle ore 19, il più seguito al di qua e al di là del Giordano.
「人類に対する犯罪だ、避難していた何百人という女子供が殺された。虐殺を中止してくれ」ニュース解説者はしゃくりあげて泣いている。ヨルダンのむこうとこっちで一番皆が見ている19時のテレビニュースである。
La guerra pressoché senza immagini ha ora un'immagine antica: la morte degli innocenti.
(略)
...................., la cultura della guerra è morta col Vietnam.
 
「戦争文化はヴェトナムと共に死んだ」私が強く印象に残っているのは彼のこの言葉です、そうヴェトナム戦争以後、世界の歴史上にあった戦争という定義が消えてしまったのです、その後は単なる戦略上の捏造戦争にすぎません。この事はイゴール マン以外にも今のイタリアジャーナリスト達は気がついています。

彼はLa Stampa の編集長を長く勤め、又インタビューの難しい人々 SADDAM HUSSEIN や KHOMEINI 等に会って話しを聞いている。著書も多く1992年には DIARIO ARABOを出しました。  


AMORE E ODIO 愛 と 憎悪 - Guerra del Golfo & Cinema

JENNIFER  JONES ( 2/03/1919 - 17/12/2009 )

2009年12月17日に女優のジェニファー ジョーンズ(本名 Phylis Lee Isley )が高齢で死亡のニュース。もっとも女優よりこの映画のモチーフが私にとって重要なのです。彼女が出演した映画「白昼の決闘」が1992年にTVで放映されていたので、丁度来年の予定「愛と憎悪」のあたりで入れるつもりでしたが、追悼の意を表しここに載せます。

DUELLO AL SOLE 1946年度作品 KING VIDOR 監督 プロデユースDavid O. Selznick

http://www.youtube.com/watch?v=DbK_9GpS3_U&feature=related


出演者 Gregory Peck, Joseph Cotten

dall'articolo critico paker
La storia di erotismo tormentato, di odio e amore dei due protagonisti riesce a superare la morale dell'epoca (e di oggi).
E' giustamente famoso il fiammeggiante finale. Impressionante non tanto per la risoluzione estrema del conflitto passionale che ha animato il film, quanto per la sapienza della messa in scena di una sequenza che dovrà riassumere un film comunicando elementi in forte contrasto.

In ogni inquadratura e in ogni scelta si respira odio e amore.
全てそれぞれのシーン、アングル毎に愛と憎悪が息ずいている。

一度DVDで懐かしい往年の俳優達を再度見て下され「そうですね グレゴリー ペック若くて ハンサムでしたね〜 最後は J.J の黒シャツ姿がセクシーですね〜 ラストシーンいいですね〜 はい さよなら さよなら、、、」と
にぎにぎ。淀川氏も亡くなりましたね 残念ですねェ〜

mercoledì 25 novembre 2009

GUERRA DEL GOLFO   湾岸戦争考

湾岸戦争とは? 何の為に?

1991年代の湾岸戦争は非常に沢山の課題を世界にそして日本に投げかけました、特にメディア情報操作、捏造、米国政府広報の総力を投じての攻撃はそれはすごい物で大いに情報リテラシー研究ができましたが、でも何故?

私には何故こんなにも日本を集中攻撃する必要があるのか?と疑問が浮き上がって来たのも確かでした。そしてネオコン勢力が台頭する時期にもなりました、、

他国のメディアもイタリアメディアを見ているうちに米国の態度が少しおかしいと気ずき始めます。

湾岸戦争時、ミラノで働いていた私は米国政府の変態的な異常な態度にあきれ果て、何だか毎日とっても疲れました。ついには丁度道の途中にあった米国領事館をさけて勤務していた会社に通い始めたものです。日本を売春婦の様な女(国)とまでイタリアを使ってわめいた米国情報機関や国防総省。おかげで?メディアでは日本国は売春婦から始り、どもり、聾唖者、盲人、身体障害者、ゴールデンボーイ又はおしゃぶりやおしめを付けた赤ちゃんなどに変化していきます。世界が日本を可笑しく楽しむ分にはちっともかまわないのですが何かが私の中でこれだけではダメだと繰り返しささやいたのです

さらに日米関係は何となく男と女の人間感情関係が連想出来てそんなイメージが出来上がってきます。これは主に1992年の伊メディアが語るメーンテーマになるのでここでは書きませんが、詳しくはこのブログでは来年になるでしょう。

この米国の態度は今からでも遅くないのでよーく分析する必要がありそう。こうした戦略をう まくあしらうこつと利用するデイプロマテックでかつプラグマテイックな知恵を考える時がきていたのかも知れません。湾岸戦争中はその色々なメディアリテラシーを分類整理出来た良いチャンスでしたが、ただそれを理解分析出来る年齢にも至らず、相変わらず子供みたいで相手にならなかった、というのが日本の現実の姿でしょうか。

その後は多分徹底的に潰されるか、女中か奴隷扱い、あるいは殺される運命の様にも見えました。

後年フランスJETROのスタッフと話した時『日本は奥さんなんだから、妻らしく乱暴な夫の暴力を注意すべきでは?』と言ったら、彼は『奥さん?冗談じゃない、日本は女中ですよ、こき使われる女中にすぎない』との哀しい答えが返ってきました。これは1992年の宮沢総理時代のイタリアメディアから読み取れるので、来年書くチャンスがきます。

戦後(第二次世界大戦)から長い年月、日本人としては全く奴隷の様な関係ですが、日本は国際上は表面的には奥さん役をやらされていました。90年代は小切手を気前よくばらまく奥さん(本当は家庭内暴力夫の内妻と言うのが正しい姿)ですがそれは現在湾岸戦争から20年たった今、やっと国際社会が気がついてくれて、あちこちで言われているのですが、本当に今までどの国も気がついてくれませんでした。

湾岸戦争が何故ひき起されたか?それには1980年代のイタリアの日刊紙に書かれた日本関係記事をピックアップすれば良いのですが、いまそれをしている余裕がないので、はしょります(すいません)。

80年代の日本の経済力、治安の良さ、学校教育の成功、犯罪検挙率の高さ等どれをとっても素晴らしい状態、おまけにまだ永久就職システムの時代で、それに比例して失業者率の低さ等々これらの記事が連日と言えるほど伊日刊紙や雑誌に掲載されました。どれをとっても米国にとっては『しゃくのたね』事項です(米国だけではないかも?)。ましてイタリアメディアでは日本は米国との戦争には負けたが経済,社会構成の視点では勝者になった、とまで書いて日本は大成功だと喜ぶありさま。これらの情報は米国にとってはそうとう『カチン』と頭にくる出来事に違いありません。何せ自分が何が何でも一番強くて良い国と思い込んでいる軍事国家参謀にとっては、、

特に第二次世界大戦では米国にとって敵国同士の日本とイタリアが仲良く馬があうのが一番気にいらない、これは誰が見てもはっきりしている事です。

この頃からイタリアメデイアを使って色々な操作を始めた様です。日本のミサイル技術の探索をイタリア人記者を通じて探ったりします。丁度湾岸戦争後に種子島に行くと言うイタリア人記者に会ったのを思い出します、『種子島に何しに?何もないのに?ポルトガル人が鉄砲伝えたという歴史で有名な島だけなのに?』と尋ねると『イヤーちょっと行ってみたい』本音は日本のミサイル技術が何処までのレベル?調査でしょうか。当時種子島には東京大学がロケット発射研究している海の宿舎があり、ピョーとロケットが半円を描いてボットッと砂浜に落ちて不成功していた時代でした。私は内心可笑しくてケタケタ笑っていましたが、それを隠してイタリアの記者と話しをしなければならず、苦労したのを可笑しく思い出します。

この湾岸戦争考はづーと続けます、型を変えていつまでも、、、

もしや今も続く戦略INSIDE戦争の始りだったのかも、、、

martedì 17 marzo 2009

MADAME SADDAM HUSSEIN サダム フセイン夫人


湾岸戦争考1991年2月28日にバクダッド空爆終了一応終戦

湾岸戦争ペンタゴンより表の出演者(真の参謀は裏に)
Schwarzkopf & Powell Autostrada della Morte
死のクウェートハイウェイ
  

死守するといわれたサダムのBaath 親衛隊は現代最強の軍隊とPaolo Garimberti も真夜中のTVトークショウで何度も言っていた。しかしバクダッド空爆後、思ったより無抵抗で降参したイラク軍その姿がTVに出始めた。カメラに写し出されたゴムぞうり、これが湾岸戦争でイラク兵が残した軍靴の事実の姿。イタリア人は多少あきれ顔、イラク兵が以外と簡単に捕虜になり砂漠で座り込んでいる姿を見ながらつぶやく「おれんちの田舎のおじさんに似てるな〜」、クエート死のハイウェイには気化爆弾等で炭のようになったイラク兵の死骸と焼けこげた戦車やトラック群、、路上にえんえんと続いている。皆複雑な心境になっていった。


写真はイラク攻撃後捕虜になったイタリア空軍Tornadoの操縦頭 Maurizio Cocciolone キャプテン。そして戦後 Giammarco Bellini 少佐と共に 無事に生きてイタリアに帰還( TVで24時間コッチォローネ、コッチォローネと大声で叫んでいたEmilio Fedeの声が今でも耳に残る)その後米国NYで行われた勝利?パレードに参加して伊の人々は大きく胸をなで下ろしました。なにしろブラッキア海軍大将もコッチョローネキヤプテンも同じ様にこの戦争の意義に疑問を持った発言をしていたのでブッシュ政権に対して若干ヒヤリとして心配だったのです。もっとも伊国民は皆本心は(??)を抱いた複雑な心境でした。

Capitano Maurizio Cocciolone(RAI TG2よりのFoto)

Caso Ammiraglio Buracchia "Questa guerra si sarebbe potuta evitare se solo avessimo usato un po' più di saggezza". 湾岸派遣の伊海軍ブラッキア大将は「この戦争はもう少し知恵を使ったなら回避出来たはず」と公言して解任させられた事件。


SADDAM vs PAPA GIOVANNI PAOLO II vs BUSH papà
サダムフセイン 法王ジョヴァンニパオロ二世 ブッシュ父 三つ巴の戦い

Madame Saddame HUSSEIN 夫人の はなれ技

バクダッド空爆後いき処を無くしたサダム「ヴァティカンが亡命引き受ければいい」と皮肉った案が伊メディアに飛び出しました。法王ジョヴァンニ パオロ2世はイラクの外相テレク アジズとも面談して、イラクを心配していた。何とか戦闘を回避努力も虚しくバクダッド空爆は続きました。そのうちサダム夫人がいなくなった、、「何処だ?」「何処に行った?」 、 、、数日後に病人を装い極秘で日本を訪問し、夫の亡命をリクエストしたとのニュースが出廻り。この情報を日本外務省は肯定したとイタリアのTV NEWSが伝える(ただし夫人が極秘来日し旦那の亡命依頼をした事のみで、それを日本が承諾したかどうかは不明だった)湾岸危機から湾岸戦争中そしてその後と、国際社会から、からかわれ失笑され続けていた日本がぽっと昔のサムライにもどった如く伝わってきた話しは、サダム夫人の勇気ある姿と共にかっこいい地味なテロップ ニュースでした。

Saddam Hussein con la moglie Sajida e figlia Raghd

 サダムフセイン Sajida 夫人(茶髪)と娘の Raghd

(foto dalla La Repubblica)

湾岸戦争中に私の驚いた事の一つは、米軍戦闘機がイラク爆撃用ミサイルを投下出来ずくっつけたままイタリアに帰路飛行中との速報ニュースが入った時でした。メデイアは「どうするんだ」「おい何処に飛んで来る?」「何処でミサイル投下するのか?」「アンツィオ方向に飛んでくる?」「ウォ〜怖い」と恐怖の声................「今は第二次世界大戦じゃないんだ,ANZIO 戦じゃない、何を怖がる」「安心しろ海に落す」とこの反響に対し落ち着く様に再三忠告していました。国民一同皆夜更かしの毎日のなかで、ひときわ恐い闇夜でした。勿論バクダッドに投下されるべきだったこのミス ミサイルはアドリア海に落されました。

わっイタリアの国民の中にはこんな潜在意識の恐怖がまだあるんだな〜と驚きと一緒に哀しい気持ちを呼び起こされました。私にとってイタリアはヨーロッパの一員即ち白人世界、要するに絶対に原爆は投下されない国と言う強い確信があったので、イタリア人がこの様な恐怖と懐疑をたとえ一瞬でも抱いた事自身がただのミサイルにしても不思議で驚きでした。イタリアも第二次世界大戦の傷はまだまだ深いんだ.....と考えさせられました。


ところで米国を見ていると過去の日本との戦争経験にそうとう強いインパクトを受けた様子。この湾岸戦争後のNYでの凱旋パレードの映像に日本敗戦と大きく書かれた新聞や太平洋戦争終了後のNY凱旋シーンが操作されて入れてあった。よっぽど嬉しかったらしく思わず本音(日本から金を巻上げ、侮辱し放題、地球村八分に成功)がでたのかイラクと戦っていたのを忘れて日本と戦って勝ったみたいな雰囲気(内心たしかに広報外交戦で負けたと思ったが、こうも喜んではしゃいでいるのが、ちと不愉快)。ペンタゴン他の軍組織やCIA等諜報機関に勤める人々には、いざ日本と争うと言う時に強い変な作用があるらしい。あの日本との戦いと聞くと妙に姿勢がしゃきっとすると言うか、ピンと直立するみたい。多分太平洋戦争後にめんめんとし続けた各戦争がよほど汚なかったか、陰謀そのものの戦いだったからか、あまり誇りを持てない経験みたいで余計日本との戦いについてこの先何か裏があるのか、やはり真剣だったせいか自然と気が引き締まるのか。何かいつまでもいい迷惑な感じ、、


sabato 17 gennaio 2009

GUERRA DEL GOLFO   湾岸戦争勃発


1991年1月17日
Bombardamento a Bagdad
foto dalla La Repubblica


今日は17日、18年前の今夜 連合軍がイラクの首都 Bagdad 爆撃開始。 「インテリジェンス爆弾」と言われましたが米軍の誤射爆撃による死者は多数(i morti per fuoco amico 25%)、砂漠の楯、砂漠の嵐作戦等の空襲映像が続きました。

Bomba l'operazione Tempesta nel Desert ( Desert Storm )
以下湾岸戦争の出演者達   

Bush e Colin Powell      
 Saddam Hussein        Terek Aziz

 


国連が定めた撤退期限最終日1月15日が過ぎ17日の夜とうとうバクダッド空襲の開幕。TV CNNのArnet によるスクープ画面は緑色、花火の如き空爆、劣化ウランミサイルその他の化学新兵器使用の爆撃。中央軍司令官シュワルツコフは会戦前にハンニバル戦記を熟読して意外な方向からの攻撃を応用したとか。まあ新兵器販売見本市並と後日言われた空襲。
注目したいのはこの湾岸戦争中の空爆のハードではなく、私には全く分からないし、面白いとも思えないので略。それより広報やP.R 関係の仕事をしていたせいかつい見る角度が報道情報の操作テクニックに興味が集中してしまいます。戦争は視覚情報報道操作の力とコントロール権力分布図や国民感情は何重にも複雑な厚い階層になっているのが、普段は邪魔されて見えなかったタバコの煙がフット消えて突然何かがはっきり見えてくる作用がある様で  それぞれの破片というか事実のパズルを出し揃えて見えなかった
全体図に辿り着く機会が降ってきた。

世界を戦争Yes戦争No ふたつに分断へ大成功,この地球規模の政治メデイア操作戦略に対して何が出来るか? 現実には巨大過ぎる、、、

手強い相手なのでとことん説得術法をとり意見を本や英論文で発表したり歴史観、哲学、経済学、科学、歴史心理学等全てを使ってお互いしっかり討論し合う必要があります。まあ何も出来ない普通の人間である弱い私達はせめて目と耳その他を駆使して一般公開情報から何かを掴み出して考える資料にしていくしかない。もともと私は疑り深い方なので全ての情報を頭から疑ってかかる、注意しながらどれが自分にとって事実に近いか探し出す、フー大変。ニュースソースは何処から?バックの投資スポンサーは?けっこう時間がかかる。怪しいと疑いながら捏造画像かコラージュ編集(撮影場所、状況は同じでも撮った日時が異なるとか)を見わける、偽物が見つかるとけっこう嬉しいものです。この湾岸戦争では石油に汚れた海鳥の例がありました。情報の扱い方、どう話すか、どう書くか、映像ならどんな焦点とアングル、カット等と多数のバリエーションが発生。あれこれ進むうちに何処の国、政党、Media、人物がどっちよりとか、けっこうはっきりひょっこり浮き出てきます。テクニック度でその国の政治傾向や経済文化水準まで判断可能。
同じ国で正反対のニュースも沢山、国の民主化段階ランキングに役立つ。

戦争パワーは軍事力、経済力だけではない別の要素も必要なのがはっきりしてきます、この欠けてる要素の部分が大きいのが日本、だから戦争は出来ない。たとえば(変な例ですいません)ある国がミサイルの誘導ミス工作で味方の国民を虐殺、これを日本のせいにされた場合、ジャジャーン ! きっぱり白と弁解し強く明白な証拠で世界に抗議する政治外交能力とメデイアパワーが必要、出来るかな?逆に日本のメデイアなどは「そうかな、そうだ日本側のミスかも」とか言い出しかねない、で、結論はまだちゃんと成熟してない事。自分から不利なカードを公開する国は失格。それこそ濡れ衣の着せ替え人形役にさせられそう。国は政治戦略以外にニュースも1つの出来事を消すか薄くさせる為に他のニュースを濃くする、他に目を移させてその間にさーっと済ませるとかまるで忍法なみ。

各国の政治背景と国民感情が深い重層になっていく時代の始まりでした。

この湾岸戦争の後は何年も色々な議論が展開しました、厚顔で正々堂々とした偽善論、言い訳のとびきり上手な例、詭弁、様々な映像も出しあってまるで知恵合戦みたい。邪悪なものは結局ばれる「ほれみろ」とか思いますが、いずれにしろもしもの時用、自分の心の予行訓練。

人を殺したくない戦争が嫌いで反対な人間に残された武器は知力しかない、あちこちの情報を集めて比較しつつ行き方や対策を探し出さなくては、
ついでに遺書も書いとこ、しかたない、でも子供を殺さなくてすむ。

venerdì 6 giugno 2008

BAMBINI IRAKENI & GIAPPONESI  イラクと日本の子供

湾岸危機から湾岸戦争勃発(1990年8月2日-1991年1月17日)

イタリアの庶民は皆で一緒に 夜ふかし時代

Paolo Garimberti の報道番組とゲスト達

サダムがクウェートに侵略してからの湾岸危機の頃は次第に夜はTVのトークショウがさかん。あちこちの番組で戦闘論争が始まり見ている人も巻き込みました。中でもパオロ ガリンベルティを中心にしたRAI TRE 夜中の番組は各界のイラク及び中東専門家を招いて戦闘争論が盛ん、とても参考になりました。ガリンベルティの論ではサダムの共和国親衛隊は完全装備で強靭、さらに彼らのサダムへの忠誠心が異常に強く、最後まで戦う覚悟がある事等が説明されていました。この番組でも頻繁にアメリカ軍は海の何処から上陸予定とか図面入りで予測を放映していた。後年分かった事ですが米国はサダムを騙すために海から上陸攻撃と偽情報をイタリアのTVに流したとか。

人々は仕事から帰ると夕食後は早々にテレビを覗きあれこれ討論、少しづつ夜ふかし族となっていきました。イタリアで本格的に始まるのはバクダッド空襲からですが、本当の連帯感で国全体が夜ふかしになりました。この真夜中にEnrico Ghezziが主体のチームがその日のTVに放映された画像をコラージュするBLOBと言う長寿人気番組がスタートしました。市内の劇場で見られない映画を放映する エンリコ ゲッツイの別の真夜中番組 FUORI ORARIO のテーマ音楽はイタリア人には忘れられない音律になり、後日 Giorgio Armani は彼の作品発表ショウにこの曲を使ったぐらいです。TV NEWSには戦闘に参加する事になった若い空軍飛行士が日本の特攻隊式の白いはちまきをしているのが映っていました。兵士へのインタビューの返事は「しなくていい戦争だ」国民皆が同じ様に乗り気のしない参戦で、良い例がイタリア海軍, 最高指令官 Mario Buracchia が「これはさけられた戦争だ」の勇気ある!発言で解任させられた亊件。もっともこのニュースはイタリア国民には微笑みで受け入れられました。(誰もが分かっていても本当の事は言えない、、そんな時代だった)

一方ブッシュ父によるメディアでのイラク悪人論はエスカレートしてますます大声になってきました、、、現実生活はミラノにもイラク人はいたし子供達はなるべく彼らを苦しませない、悲しませない様に工夫して一緒に遊び勉強していました。私の子供にもイラクの子をかばって決して仲間はずれにしない様に言い聞かせました、このいいつけはちゃんと守ってくれ、おまけに中学校でイラク攻撃反対パーテイまで企画主催していた。大人より子供の方がずっと賢く思いやりがあります。父兄会でイラク人の親から感謝の目ざしがありましたが、迷惑がかかると思うのか、他の父兄の誰にも声をかけないでいた姿が気の毒で、悲しい思い出です。この感謝の態度は私にされましたがこれは日本への感謝(イラクに派兵反対)でもあった様です。

反面「日本を侮辱しつくせ! umiliare umiliare umiliare, giappone ! 日本人を見たら殺せ殺せ殺せ!(WWII中に米国メディアに流れた反日メンタリテイー増強用ドキュメンタリーに出た言葉。当時のプロパガンダのイメージやキャッチコピーをピックアップしたRAI 3ドキュメンタリーGiancarlo Santalmassiによる日本実状紹介番組に映ったのを初めて見てショックだった)世界から日本を村八分にしてやるッ!(こっちは湾岸戦争用)」等アトランティック海洋の向こう側からの遠吠えが伝わり、、強いプレッシャーと変態的ないやな空気が感じ取られる日々が続きました。

今 日本製品が高性能品質だから世界で売れている?決してそれだけではない、世界の人々は日本製品に期待と言う希望の付加価値を付けているのでは? それに答えるにはどうしたらよいか?(ブランド製品買って、グルメに狂って、よその国の事状など知らない、は困る)自分自身と世界情勢のもっと細かく深い情報収集、マーケッティング & 分析をする方がけっこう早道かも。

sabato 17 maggio 2008

GUERRA DEL COLORE  カラー戦争(無言の主張)

PERICOLO GIALLO ?   危険なイエロー 

イエロー 

よからぬ言葉「黄禍」の再来か、死語になって欲しい古く嫌な言葉だ。イタリア語 Giallo はそれだけだと黄色、スリラー&ミステリーいわゆる刑事物や探偵小説、疑問や謎、不思議、神秘で分からない事と言う意味で、禍(わざわい)の意味は無い。

イエロードラマや黄色小説は花盛り、ニュースではアジア人の迷宮入り事件はGiallo del gialloなどと言って喜んでいた。

異常に多かったCMは電話ビジネス情報提供のイエローページ。

反面 TAXI組合が相談の上 湾岸戦争後に TAXI を黄色から白に変色し、観光の日本人は戸惑っていた。

反対陣営にいた人はチャンスがあるとこの色を悪用、例えば非常に悪辣なニュース映像に黄色のフィルターをわざとかけて強調したりした。

当時のTVニュース解説者や各分野の男性がつけたイエローネクタイのヴァリエーションもこんなに沢山のトーンがあったのかと面白かった。

戦争最後の時期にはゴールドネクタイ(米国ユダヤ金融大好き派)まで登場。

又ブルーのコートや背広の下はイエローを着る事(欧州に日本いても、いいよ派)が流行(注:1990年代)反面、土の下には欧州から日本追い出し工作の種もまかれ始めていた。
















Ministro Genscher da FDP      
              Giovanni Paolo II ( foto da La Repubblica )







左からLeo Gullotta 中央はPippo Franco右はメガネの Oreste Lionello

Leo Gullotta、 Pippo Francoと Oreste Lionelloはベテラン声優であり俳優。オレステ リオネッロの特技はせむしのアンドレオッティ役、そして湾岸危機の流れをそのままお笑い風刺コントにした番組では 軍服の袖の中から「日本製が好き」と言ってプラモデル戦車を出したり入れたりするサダム役や大金を持ち歩く小学生役で大人気。 勿論ブッシュ父役も出演しRAI UNOが放映した湾岸コントの傑作TVバラエティーショウ BIBERON. CREM CARAMEL等Bagaglinoのお笑い3芸人。


lunedì 21 aprile 2008

GUERRA DELLA PUBBLICITA 広告戦争

STRATEGY OF ADVERTISING     広告戦略






湾岸戦争中は沢山のパラレル戦争がありました。上は日本メーカーの広告。あまりに悲しくて以前の S 社に電話した様にこの会社(イタリアの販売会社で日本人はいなかった)丁度家の近くだったので訪ねました。別に怒りに行ったのでは無く「コピーライトの理由、どのくらいの広告期間契約なのか?」訪ねたかっただけ。答えは下請け広告スタジオが作った由「あと4ケ月で終わります」「あのメーンコピー モルディ エ フジ かみついたら逃げろ はイタリア人は J をイと発音するので正しい製品名を覚えてもらう作戦です」きっと立派な正論が帰ってくるのは覚悟していたので「日本人としてあまり嬉しくない表現」と伝えて帰宅。 いずれあと4ケ月で終わる、、、それまでの辛抱、、と。 







右はイタリアの旅行会社の広告。表現が大変ユーモラスでちょっと気の毒 でも可愛いい、広告として成功。メーンコピーは 「ヴァカンスなど 一度もした事ない」働き過ぎでは? 










左は「早く! 酸素を」 「初のピューアーな酸素増力機 」のコピーライト。子供がガスマスクをつけ、後の両親は何か死んでる様なシーンは 時が時なので (当時サダムの毒ガスミサイルを心配したイスラエルの人々はガスマスクを用意)この広告には大分クレームがついた様です。日本企業の広告ですが、日本人がからかわれるのも悲しいですが、これからは広告表現にはクリエイティブや各部門にまかせっぱなしでなく注意を払う方がいいですね。

giovedì 17 aprile 2008

INIZIO DELLA TRAGEDIA DI GOLFO 湾岸悲劇の開幕

1990年8月 湾岸危機の始まり BUSH VS SADDAM
( AMERICA VS GIAPPONE + ITALIA )

イタリアはバカンス中、真夏の2日にイラク軍がクエートに侵入し湾岸クライシスが始まっていた。私はトリエステの近くGradoの海で泳いでいたが 夕方のTVではブッシュ大統領が大声で訴えている。最初から何故か「戦争だァ」「戦争じァー」と口から泡を吹いて世界に罵声を響かせ叫んでいた。「何だ」、「どうした?」、「何で戦争なのか?」バカンス村の人々はもそもそ不思議そうに話し合っていた。

「これか、これだったのか、、長い間狙っていた復讐工作のチャンス、隠れた日本への宣戦布告だ、」私は心の中で唸った。いつかは起きると心配していた最悪の事態がこれで幕を開けた。イタリアはこの瞬間から哀しいドラマに追突していく運命を背負った。

夏も日が過ぎ、次第にイラク側に捕られた人質が増え始め日本人もTVに強制的に出されていた。イタリアの世論も戦争か否か(要するに米国か日本につくか)と真っ二つに分かれお互いに喧嘩を始めた。イタリアの国会では「何だか彼女(日本)はこのままでいくと強い男(米国)に殺されるのでは、」と不安が走り目が赤くなった政治家が大勢いた。イタリア中が「日本か米国か」の選択に迫られると言う妙な境遇にたたされてしまい、それぞれが自分の好きな方法で戦った、正当な政治戦争討論、又は隠れて戦うカラー戦争、おふざけギャグの投げあい合戦、広告TVCM/SPOT 広報戦争とメディア中も巻き込み、それはすごい愛憎戦争の始まりだった。

Bettino CRAXIのつまずき(社会党の崩壊)
11月になり中曽根が日本の人質 取り戻しにサダムを訪問(中曽根老目をむき出してサダムを睨んでいたが)その後ゴルバチョフと会う予定とインターナショナルニュースのテレタイプが早朝TVに流れた, 途端にその日の午後、社会党の書記長であったクラクシが日本のこの行為を早合点して日本側につく行動を起こし、この動きは後に社会党を(様々な要素もあるが)一路崩壊への道に誘発してしまった。(又ゴルバチョフのソビエット連邦も年末には崩れていった)当時イタリア人は家に帰りTVの前に座ると突然3党に分かれると言われていた、内訳はRAI1はキリスト教民主党、RAI2は社会党、RAI3は共産党。この社会党のボスのギグシャクはその後にイタリア版大塩平八郎の乱(Antonio Di Pietro の Mani Pulite)を生む引き金にもなりクラクシは汚職事件で刑務所に入るかわりにチュニジアで余生を終る。社会党各政治家の怒りも頂点に達したが、その親派もカンカン。その頃日本企業がスポンサーでテニスカップが開催されたが、ひどい事に「何処かのへんぴな国かモンゴルかのスポンサーでこのテニスカップは、、」などと中継するアナウンサーがいた、強烈な社会党員だったようだ。他にも「一生日本を許さない、、」と豪語する党員がいた

キリスト教民主党分断と失脚
党首であり首相のアンドレオッティは戦争に乗り気が無くとうとうブシュに1本釣りされ米国から帰ると即内閣解散その後党は崩れて分断していった。もっとも彼は後にマフィアの関係者 影の参謀と調査され、消えつつある(まだいる〜)。彼の言葉は結構きつかった「何か米国から学ぶ事などあるのかね、」だが彼の内閣メンバーはポミチーノやデロレンツォなどひどい大臣が多くキリスト教民主党が腐敗後分断したのは時間の問題だったようだ。この頃の風刺は椅子の脚が一本短くて転げ落ちる様になっている映像が多く党員は「くそ〜日本なんて、、」とぼやいていた。

Pietro Ingrao(共産党)頑固老人の反骨
イングラオ老がたった独り「 NO ! 戦争は反対じゃ 」頑固に言い続けた、皆他の党員は「戦争はしたくない、、が、、しかし、、まあ、、でも、、平和論も分かるが現実は、、時と場合が、、」(罪のない女子供を殺す行為に時と場合があるのかね)こんな中で最後まで NO を貫いた老人。 勿論ソ連邦と共に雪は完全に溶け去った。(それで今 世界は洪水だらけ)

イタリアの国中が日本の為に泣いた、、心配で、ハラハラして。遅い決断、ちぐはぐな返答、外交キャッチボールが出来ない日本の世間知らず、、そんな姿を一生懸命に弁解してくれた。

Sergio Romano(外交評論家)の助け
兵隊を派遣出来ない日本がお金で支援、そしてその後の差額金の騒動に、TVは色々なお笑い風刺が流れる中、ロマーノ(外交評論家で元モスクワ大使)は「要するにアメリカの計算違いに過ぎない(戦争批判も含む)」と批判した(これは逆にとると橋本龍太郎の態度を弁護した型になる)この時彼は反対陣営からひどく非難され、ついには捏造事件もでっち上げられ、堪忍袋の緒を切ったRomanoは「決闘しよう」と言った騒動があった。橋本はその後来伊したが会議後カプリに遊びに行った、私は何故ロマーノを招待して会食しないのか理解に苦しんだ。

多額金の援助だったが後日 民主的な市民などいない独裁石油王国クエートから感謝されなかった事は日本の誇りと言える。(又日本を侮辱する絶好チャンスの湾岸戦争で日本への感謝の言葉など出る幕は無さそう)

まだまだ沢山のイタリア人が日本を思って傷つき苦しんだ、それはまるで恋人を慕う姿の様でもあった。ローマ法王(Giovanni Paolo II)は世界中の弱い者側に一緒にいたので大きな心の支えとなった。

イタリアの中にはあまりの痛みで疑う様にブツブツつぶやく人も出始めた「もしや、 俺たち同じ女性を愛してしまったのでは?」