lunedì 26 aprile 2010

SONO UN GIAPPONESE E MI RIBELLO ある日本人の反逆

1991年10月10日木曜日付          La  Repubblica

MARCO  PANARA 記者  東京特派員

Sono un giapponese e mi ribello
僕は日本人だが反逆する。

Si chiama Akio Koiso. E' stato per trent'anni impiegato in un colosso bancario, ora al centro di
uno scandalo. Ha raccontato le magagne del suo paese in un libro.
名はこいそあきおと言う。大銀行に30年勤めた銀行員である、今スキャンダルの中心にいて、彼の本はこの国の欠陥を物語っている。

下がマルコ記者の書いた全文サイトです
http://ricerca.repubblica.it/repubblica/archivio/repubblica/1991/10/10/sono-un-giapponese-mi-ribello.html

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この記事は今まで日本人の良い面や可笑しい事だけ書かれていたイタリアメディアに初めてと言えるくらい、複雑な社会関係、日本社会の人間関係の中にある冷たい意地の悪い欠点があるのを隠さずに書いてあります。

冷たい非人間的な社会に変貌してしまった日本社会の現状がなるべくイタリア人に理解し易く書かれています。デリケートな事柄なので結構な文章力と説得術が必要ですがマルコ記者はベテランらしく上手に説明しながらペンを進めます。現代の日本のサラリーマン生活(職場のいじめ等)の欠陥や難しい人間関係を彼 Koiso Akio の著作に書かれた人生を例にとり解き明かしてくれます。何故イタリア人には理解するのが難しいかと言えば彼らは人間関係が非情に温かく、誰も厳しく働く心情は持っていません、人間的で完璧主義ではない血が通っているのが良い面でも悪くてもイタリア社会とその人間関係です。勿論そのおかげで欠点も多いのが伊社会ですが、この記事にある日本社会はとても理解しにくいのがイタリア人の自然な気持ちです。

記事内のベストセラー本 
小磯彰夫
著1991年『富士銀行』 晩聲社1300円富士銀行行員の記録
(こいそ あきお1942年満州チチハル生まれ1960年富士銀行に入行)

現在の小磯彰夫氏のサイト 誇り高き平社員とその友の会
http://homepage1.nifty.com/koiso-hiraken/sub2.html

現在はイタリアヤングの間では、日本人や日本社会にある冷たさが、ブログやサイトでさかんに討論されています。日本人の人間関係にスキンシップが少ないのも若いイタリア人には驚きの様です。イタリアの人達が日本に憧れて訪ねた後、表面と違って以外と冷たくて自分の意見が無い日本人にびっくりして帰ってきます。又日本人がイタリアを訪ねてその美しさや人なつっこい愛嬌に驚き、反面治安の悪さ(スリ、かっぱらい、泥棒)にあきれて日本に帰ってくるのと似ています。実質的な被害は日本人の方が大きいかな?

当時は連日のようにマルコ記者の東京特派員報告がラ レプッブリカ紙に載ります。これもそのうちの一つで全文を打ち込もうと思っていたところ、けっこう長いのでふっと同紙のアーカイブサーチを探してみたら、ちゃんとありました !!!  助かった〜 このブログを始めた頃は2008年ですが、同紙のサーチエンジンに出てこなかったマルコの細かい記事が今は入っているので嬉しい。ラレプッブリカ紙のこのサイトアーカイブの編集スタッフと長期マラソンしているみたい、私の方がボ〜と うろうろ悩んでいるうちに先を追い越された様です。

Koiso Akioが語る彼の人生のなかに父親がシベリア抑留から帰るヶ所が出て来ます。イタリア人が初めて知ったスターリンが行った日本兵への残酷な収容所列島の一面です。参考までに日本兵シベリア抑留のサイトを調べた時に見つけて感動したのでここに貼付けします。

日本兵のシベリア抑留サイト
http://kiuchi.jpn.org/nobindex.htm

と言うのは、イタリア人の若者達も大勢ロシアに戦いに出て行ったというか、ファシスト政権により送られました。日本と似て大多数は行方不明兵となっていました、が、湾岸戦争の当時日本の海部首相がゴルバチョフからロシアでの日本兵埋葬死者名簿を受け取った時のVideoが伊TVのニュースに流れた瞬間、イタリア全国のロシアに送られたらしい行方不明兵士の身内の人々は「あっ !! 」と叫んだのです。「我らの行方不明のイタリア兵リストも !! 」と共通の苦しい哀しい過去を思い起しました。

現在のイタリアでは誰にも顧みられないファシスト政府下の兵隊達です。これは日本と似ていて極端に悲しい現実です。特に現代の若い人達や特に左翼知識人と自負する層が激しく拒否反応を示します。反対にど田舎のおじいちゃんの方が60年後の自然な反応が返ってきます。これは私が日本人だからその反応に長い間隠していたものを感じ、早く言えば日本人にたいしては正直な感想を語ってくれるのかもしれません。イタリアの田舎の町を訪ねると必ず無名戦死の記念碑があり、近くの村や町の兵隊達で故郷に生還出来なかった人達の名前が刻まれてあるのも多くあります。

ミラノに住んでいた時のアパートの隣のお婆ちゃんが当時を思い出しながら語ります「この近くにあるトリポリ広場には戦争直後には元ファシスト兵やファシズム協力者達の死体が山のようにつみ重ねてほったらかしてあったんだよ」戦後に勝者になったパルチザンや共産党員や連合軍協力者達は「アパートにかたっぱしから入ってきてファシスト達を隠してないか探し回ってね〜」「見つけてどうしたの?」「殺したんだよ」「どうして〜? 戦争は終わってたんでしょう〜」「復讐からさ」「........ 」

この話しからロレート広場でムッソリーニと愛人クララ ペタッチが殺された後、逆さ吊り(現在のスーパーマーケットUPIMの建物を建築中のために出ていた工事棒)に引っかけられた現実の群集心理が推察可能です。この事から いかに国民が苦しめられたか、と同時にグロテスクな民衆の復讐心が見えます。確かにファシスト政権下の憲兵はいばっていたようで、私も今の憲兵(カラビニエリ)はポリスと同業でユニホームが違うだけですが、ただ国民に仕える精神が無くファシスト当時と同じ傲慢さがあるんじゃないかと疑ってます。

日本の人達はそのあたりのあんばいが良く解って無い人が多く、大きな声で(今)イタリア人の前で三国同盟の話を出しますが、これは要注意が必要です。会社での関係者とかの公の会食等では特に、はっきり言って話題にしない方が賢明です。歴史上には確かに存在した事なのですが、今のイタリアでは受け取り方が違うのです。まあ誰も全体主義者にはなりたくないのは確かですが、

当時ロシアに送り込まれたイタリア兵は戦で死んだのではなく、寒さと飢えから死んだのがほとんどで私から見ると可哀想な兵隊なのです。田舎にいて右も左も判断できない素朴な男達もいたわけです。皆が聡明で本を読んでいたわけでなく、イタリアの為に少し目覚めたお百姓さんや山の中の人達、田舎職人の青年達に国家社会主義(ファシスト党-全体主義的)政府の政策が正しいものかどうか判断する知識が当時あったのか? 何か残酷な気がします。ダヌンツィオの様な詩人や芸術家がいて戦争讃歌をしてましたし、私には左翼思想もファシスト国家社会主義思想も区別つかずわけのわからないまま戦争に駆り出された若者が沢山いたと想像します。

ロシアに抑留されたイタリア兵捕虜( 古修道院SUZDAL強制収容所-Prigione di Suzdal)
http://www.youtube.com/watch?v=UN_i5d4cTkQ&feature=related

今のジャーナリストや知識人は「いや当時の若者達は政治思想は良く解っていたはずだ」と非難します。私にはどうもね〜 今でさえあまり政治思想が解ってない若者で解ったふりをする人達が沢山いる伊社会で、70年前なら余計に政治や国際知識などとは、ほど遠かった若者達がいたと思えるのです。今みたいにインテリ風の頭でっかちばかりではありません、昨日まで羊を追ったり、漁師やトマト狩りをしていた人達です。その意味で今のイタリア社会は彼らに冷たい。素朴に自分の国のために、と単純に考えて、ロシアまで行かされて凍え果てたのでしょう。日本兵も戦闘より飢え死にした%の方がずっと多い。戦死者には声が無いので残念ですが、どの国でもどんな時代でも喜んで飢え死にする人(兵)がいるとは思えません。

今イタリアでも日本でも人々は皆自分は「民主主義的だ」「自由だ」と大声で宣言しますが、歴史を考える時には、もう少し寛大さも欲しいなあ〜 と つい ぶつぶつ考えてしまいます。