FINE DELLA GUERRA !!
L'ESERCITO AIUTA LA POPOLAZIONE !!
今日8月15日で日本は終戦の日、今年起きたある出来事を思い出した。
あれは新年の願いがかなったのだろうか?
2010年、戦争に行くより助けが必要な国へ救援しに軍隊が出た !! まずはイタリアから、そして日本からも自衛隊が出動し私にとっては、ついにやった 「 ほいっ待ってましたっ !! 」の嬉しい新年のニュースになった。
12 Gennaio 2010 Terremoto a Haiti !! オッHaitiに大地震だ !!
新年の1月12日ハイチに7.5度の地震 !!! 頭から水をかけられたみたいに ガバッと目がさめてしまった、、
それからは毎日あちこちのサイトニュースとにらめっこ、時間を確かめつつ、弱いアングロサクソン語を苦労して読み、次はイタリア語、ついでにフランス語もチラッと見る、最後は日本語。あちこち見て回る作業の日々が続いた。なんで夢中でサイト&TVニュースをにらめるか ?米国と仏は地震をどう政治工作に使うのか ? ニュース内映像の工作など当時少し知りたい事があったので各国のサイト&TVを睨んでいた !!
そんな事をするうちにピョコンとイタリアからとても意味深の意見が飛び出しびっくり、、イタリアの市民防衛隊長ベルトラーゾとヒラリークリントンとの間に言い争いが、、
市民防衛隊長ベルトラーゾとヒラリーの口喧嘩 1 ( La Repubblica.it)
http://www.repubblica.it/esteri/2010/01/24/news/bertolaso_haiti-2060612/index.html
ベルトラーゾの米国批判『米国は軍隊と市民救援隊の出動を混同してる』『災害へのコーデイネーションが出来ない、国際的な機関参入が必要』『ニューオリンズの台風の時も同じ。やり方はゴマ、ルアンダ、カンボジア等でした間違いを繰り返してる、ちょっとの食べ物と飲み物を持って来てハイ終り、被災者達の将来の生活の基盤等は提供しない』等
市民防衛隊長ベルトラーゾとヒラリーの口喧嘩 2 ( La Repubblica.it)
http://www.repubblica.it/esteri/2010/01/25/news/clinton_contro_bertolaso-2071121/
ヒラリークリントンのベルトラーゾ批判『まるで月曜日にバールでやる昨日の試合のサッカー談義だわ』この二人の間で伊外務大臣フラッティーニは『我が国は米国と頻繁に話し合っており、支援の船も出動予定であります』云々と冷や汗たらたら、、
(追伸 :ベルトラーゾ氏今は現政府と親戚の汚職事件で問題浮上、女の恨みは恐ッ!)
そして嬉しい事が発生 !! ワ〜ッ軍隊の平和利用だ〜 !!
この後イタリア海軍の誇りである軽空母カヴールがハイチ援助のために船出した。素晴らしいニュースで心がはずむ、『軍艦の平和利用』世界で初めての試み、人間を大切にするイタリアらしくて勇気があり、将来が期待できる。これから軍事大国(米国、中国、ロシア)が真似してくれる事を心から願う。日本も自衛隊が支援のためにハイチに出動、白人を尊敬する風習が残っている地域や日本人を見た事の無い人達に医療を施すのは難しかったのでは? でも日本の自衛隊の本命(本当の使命の意味です)戦争に行くより現代の自衛隊の性質にあっている、、と言うか日本人の性格にあっている。
これをきっかけにどんどん軍隊の平和な活用が続く事を祈ります。
Parte la Corazzata Cavour
軽空母カヴールがハイチに支援に出るニュース
http://blog.libero.it/Personcina1/8301358.html
http://www.youtube.com/watch?v=K9eUN0DLseY&feature=related
Ritorno la Corazzata Cavour
軽空母カヴールがハイチの支援から帰ったニュース
http://www.youtube.com/watch?v=NHWpz82qbnI
イタリア国は海軍の宝、軽空母カブール(戦闘装備万全だが最新医療技術の手術施設等完備で援助支援に最適な空母でもある)を重機やトラックが必要との情報を生かして、沢山の支援品と共にこれらを乗せてハイチ救助のために派遣。その後カブールは無事に任務を終えて帰還した。
イタリアをヘタリアなどと呼びからかっている場合ではないのでは ? もっと仲良くこれからも人間を助けにイタリア等と協力して出動すると面白い。アングロサクソン国に言ってもあまり聞く耳は持たないだろうが、人間を大事にするイタリアなら二つ返事で協力して動くのではないだろうか。
日本が地球上の核兵器廃止運動に力を入れ、軍隊の平和利用を世界に発信する時代がきたのだろう。既に歴史の中で経験済みの事実、侍の刀を剣道と言うスポーツに変換した過去がある。刀は立派な兵器であり本来は人を殺す武器、今はそれを平和に利用している。現在では世界で剣道をたしなむ人々が増えているフランスにイタリアに欧州中に道場がある。
軍隊を平和に災害にあった人間救助に利用する事を世界に説得するのが、今、日本の課題の様な気がしてならない、、
domenica 15 agosto 2010
venerdì 6 agosto 2010
IMPERO COLPISCE ANCORA 帝国の逆襲
一つのメダルの表と裏、黒 & 白のペンタゴンカラーついに善玉と悪玉が共生か? 現在 維持経費は550000000000$ かかる、米国は何処から調達?戦争経済の連続で?日本人の血税か?ら?か ?
no comment !!
(悪玉)

L' IMPERO COLPISCE ANCORA !!
(善玉)

(fotoはLa Repubblica のイラストより)
それぞれの国々が様々な思いを、、5角形に、、
non commento bis !!!
ネオコンその後 スナップ 透視写真

never, ending history !!
告知 : 第二次世界大戦中の空襲警報

イタリア国民の語らぬ思い出「お知らせ」
『住民の皆さん 空襲警報が鳴った場合 近所の避難場所防空壕はロゴテタ通りのミニミ修道院です』(伊Ortigiaで家の近所の バール に貼ってあった第二次世界大戦中の張り紙)
私は軍隊と軍人や兵隊が大嫌い、と言うか、この21世紀には無用な長物と確信しているので毎年8月になると戦争の代替行為がないものかあれこれ考えます。そろそろ軍隊などはジュラシック公園に見せ物として陳列すべきで、これからの世紀には実物はもう不必要です。
毎年7月のパリ祭では軍隊行進よりその後ろに行列する消防団や救急団等の方がフランス庶民には大人気です。家のそばに行列が毎年通りますが、消防士らがそばにくるとパリッ子達がキャーキャッー と歓声をあげて拍手喝采します。消防士のパーテイー等あってガールフレンド獲得に頑張っています、日本の女の子も参加するといいのにな〜。親達は何はともあれ消防士を小さい子供達に見せようと肩車したり、もう大変、この方がずーと健康的で楽しい !! フランスの子供達のあこがれの夢は消防士になる事で、とても人気のある職業です。(親の本音は給料は安いのですが各保障や福祉施設の利用が出来てかつ年金受領後の生活が確かで老後も良い生活が待っています)私もAmorinoのアイスクリームを買ってなめつつ消防士団が通るのを待ちます。勿論、フランス軍隊が目の前を通る時はブーと嫌な顔して睨んだりして「何が新兵器じゃー」とか ぶつぶつ言ってます(失礼)
ついでにいつもこのフランス消防士達の後に日本からも消防団や火消しの生きのいいお兄さん達が行進するといいな〜と思っています。日本ももっと世界の警察や消防士と仲良くパレードするといいのに、戦争屋よりズーと世界の人々から信頼され愛されていく職種なのにね〜。パリジャンヌが通り過ぎる消防車に投げキッスしてたので真似したら大喜びされた。(仏は医療関係の緊急事態でも消防車に電話したりします、早く来るからかな?それで心臓発作を起すと火事用の消防車を呼ぶのです、可笑しいな〜といつも思いましたが、最近区別する様になったみたい、、)
先日パリの大通りを歩いていたらお巡りさんがいきなりこっちを見るのでぎょっとしたら『KON NICHI WAA !! 』と大声で挨拶してきた。覚えたての日本語なのだろう、仏警官の安月給ではガマンしてお嫁にきてくれるのは日本人女性ぐらいなのだろうか、、
no comment !!
(悪玉)

L' IMPERO COLPISCE ANCORA !!
(善玉)

(fotoはLa Repubblica のイラストより)
それぞれの国々が様々な思いを、、5角形に、、
non commento bis !!!
ネオコンその後 スナップ 透視写真

never, ending history !!
告知 : 第二次世界大戦中の空襲警報

イタリア国民の語らぬ思い出「お知らせ」
『住民の皆さん 空襲警報が鳴った場合 近所の避難場所防空壕はロゴテタ通りのミニミ修道院です』(伊Ortigiaで家の近所の バール に貼ってあった第二次世界大戦中の張り紙)
私は軍隊と軍人や兵隊が大嫌い、と言うか、この21世紀には無用な長物と確信しているので毎年8月になると戦争の代替行為がないものかあれこれ考えます。そろそろ軍隊などはジュラシック公園に見せ物として陳列すべきで、これからの世紀には実物はもう不必要です。
毎年7月のパリ祭では軍隊行進よりその後ろに行列する消防団や救急団等の方がフランス庶民には大人気です。家のそばに行列が毎年通りますが、消防士らがそばにくるとパリッ子達がキャーキャッー と歓声をあげて拍手喝采します。消防士のパーテイー等あってガールフレンド獲得に頑張っています、日本の女の子も参加するといいのにな〜。親達は何はともあれ消防士を小さい子供達に見せようと肩車したり、もう大変、この方がずーと健康的で楽しい !! フランスの子供達のあこがれの夢は消防士になる事で、とても人気のある職業です。(親の本音は給料は安いのですが各保障や福祉施設の利用が出来てかつ年金受領後の生活が確かで老後も良い生活が待っています)私もAmorinoのアイスクリームを買ってなめつつ消防士団が通るのを待ちます。勿論、フランス軍隊が目の前を通る時はブーと嫌な顔して睨んだりして「何が新兵器じゃー」とか ぶつぶつ言ってます(失礼)
ついでにいつもこのフランス消防士達の後に日本からも消防団や火消しの生きのいいお兄さん達が行進するといいな〜と思っています。日本ももっと世界の警察や消防士と仲良くパレードするといいのに、戦争屋よりズーと世界の人々から信頼され愛されていく職種なのにね〜。パリジャンヌが通り過ぎる消防車に投げキッスしてたので真似したら大喜びされた。(仏は医療関係の緊急事態でも消防車に電話したりします、早く来るからかな?それで心臓発作を起すと火事用の消防車を呼ぶのです、可笑しいな〜といつも思いましたが、最近区別する様になったみたい、、)
先日パリの大通りを歩いていたらお巡りさんがいきなりこっちを見るのでぎょっとしたら『KON NICHI WAA !! 』と大声で挨拶してきた。覚えたての日本語なのだろう、仏警官の安月給ではガマンしてお嫁にきてくれるのは日本人女性ぐらいなのだろうか、、
domenica 25 luglio 2010
QUARTIERE EBRAICA メンタリテイー又は文明の衝突 ?
ORTIGIA にあるユダヤ地区の我が家 CASA MIA.... CARINA !!
去年 VIA DEL CROCIFISSO に可愛い家を借りました1年間の約束で、、


Via del Crocifisso この通りも気に入って、必要家電(冷蔵庫、洗濯機、電子レンジ、湯沸かしポット、アイロン等)の全生活用品完備(シーツ、毛布、タオル、食器、ナイフやフォーク付き)のミニミニレジデンス一軒家に決めました。インテリアもセンスがいいし必要なのは衣類のみ、トランク1ヶでパリから引っ越しだ ワ〜イ !! と喜んで飛んできました。


Via del CROCIFISSO にあるRONCO1への入り口とロンコにある私の家の玄関。


どの家もまず最初鉄扉がありその後にガラスや木のドアがある、我が家はガラスの玄関ドアー。写真左は玄関内側より屋外 RONCO を見たところ。右は玄関入ってすぐキッチン兼勉強机(さらに一段下の居間で何か調べたり書く事はしっけで不可能、、)


左は居間、右の写真は寝室から居間を見たアングル。壁の厚さ1m以上、広いサロンでインテリア等は悪くない、ただ昼でも電気をつけないと本当に真っ暗。部屋にはしっけを少なくすためにいつも大きなキャンドルを買って用意(クーラー兼暖房、湿気抜き装置機付の家ですが...)

上の写真は Via del Crocifisso 通り、奥に見えるのがユダヤ地区の中心シナゴーグ跡に再建され地下にユダヤ清めの風呂が発見されたSan FILIPPO 教会
狭くてもこぎれいに管理されている Via del Crocifisso 毎朝この路地を我が家のあるRONCO 1°から出ると Via della GIUDECCA 方向に行き San FILIPPO 教会につきあたる(タバコ屋の看板Tがあるヶ所)さらにこの教会脇 VICOLO II ALLA GIUDECCA 通りをひたすら真っすぐ歩く。この路地を散歩しながら左右に目をきょろきょろさせて、何千年前のユダヤ人の生活風習とメンタリテイーに思いを馳せる、、今の人達は「ここに住んでいたユダヤ人はゲットーではなくて自由だったんだよ」と言います。本当かどうか私には恐ろしくて推察したくない、、ただ変な想像をしてみたり、、何故こんなに狭い路地なのか? もし路地の始まりに鉄扉をかける必要があったら?夕方又は朝方それが閉まったら?おまけに外から閉まったら?歴史考証で確実な研究結果なく想像するのは(歴史捏造に注意)よくない、止めたっ、、と、、どんどん歩いて行くとしまいに海にぶちあたります。そこでマニアチェ城の方向にむかって太陽をあびつつ海沿いをぶらぶら歩きVia Romaのはずれにあるミニマーケットに買物に行く、これが私の朝の日課。
Vicolo II alla Giudecca に毎朝地面にウニを山の様において真二つにわり中のウニをスプーンで丁寧に一本一本すくっている家族がいます。毎日彼らの前を通るので最後には挨拶しあう様になりました。家の中ではおばあさんが暗い中で光る巨大テレビを見ていました。ぎぇー、、日本人なら、何をさしおいても、まず太陽のあたる家に移る事を考える。暗い疑り深い目でじーと見るので、ちっと怖くなり挨拶もそこそこに退散しました。ちょう巨大なダイヤの指輪がおばあさんの指にキラキラ光り、、その瞬間ただの怖さでは無く、何か全メンタリテイーが衝突し合う様な戦慄を感じました。(んま〜そんなダイアモンドが買えるのなら、日の当たる家に引っ越す事を、と、、おせっかいに考えました)、、その夜ジュデッカの我が家の暗闇でハッと思い当たった一つは、何故吸血鬼ドラキュラがユダヤ人のメタフォラ物語になったのか?またドブネズミのメタフォラは地下道を利用する事からきたのかな?、、
文明の衝突 ? メンタリテイーの違い? それとも濁流の交差点か?と、、いつも静かに悩みますが、世界には理解不可能なメンタリテイーがガンと有る事を再認識しました。アル意味でこれか らの研究課題として的を射ているので、この意味深い周辺をゆっくりこれからも勉強していきたいと思っています。日本でよく出会うノホホンとした幸せな目の老人はここには見当たりません。この問題の糸口が何とか見つかった時、日本人は皆がなりたがっている国際人になれるのかも? ただ珍しい貴重な日本人の良い点を捨てて、そこまでして国際人になる必要があるのだろうか? 、、生き残る為にはもっと相手を知る必要が、、
それでこれからの世界は各文明文化の歴史とメンタリテイーの深部研究分析が大切「もっともっと勉強しなければいかんな〜」と私はユダヤ文化や各国ユダヤ系のメンタリテイーを 知りたいと興味を持ってあれこれ見て回ります。(かつて米国が「菊と刀」で私達を研究した様に、まず知る事が重要です、これは愛とは次元が違います)自分に何かとちょっかいだす者(ま〜ちょっかいくらいな らいいのですが、もっとひどくなる可能性も大いにあります、又その逆もありえますが、、)対する相手をよく知るために研究するのは大事な事だと考えるのです。
このブログのメインストリートである1990年代のイタリアと日本の姿。そして交差点になった湾岸戦争以後 日本は たたきがいのある、はらいせ役にぴったりな国になってしまいました。愛してくれた他の国がさっぱり見えず解らず、とんちんかんでトロイ、鈍感な国に落ちていったのです。誰も興味を持たない政治と外交をもつ国として、、その後は国際社会の舞台から少しずつ脱落していきました、、、
あれこれつくづく考えさ せられたジュデッカ暮らしの月日でしたが、その内さすがにタフな私も太陽不足と湿気で心理的にまいってきました。9ヶ月間がんばりましたが、引っ越しをする決心をつけ、アパート探し、幸い友人の応援で良い家が見つかりました。新しい家は太陽がいっぱいですが、インターネットまだ無し。そんなでフォト アルバムが続きます、、
SAYONARA QUARTIERE EBRAICA CASA MIA !!
去年 VIA DEL CROCIFISSO に可愛い家を借りました1年間の約束で、、


Via del Crocifisso この通りも気に入って、必要家電(冷蔵庫、洗濯機、電子レンジ、湯沸かしポット、アイロン等)の全生活用品完備(シーツ、毛布、タオル、食器、ナイフやフォーク付き)のミニミニレジデンス一軒家に決めました。インテリアもセンスがいいし必要なのは衣類のみ、トランク1ヶでパリから引っ越しだ ワ〜イ !! と喜んで飛んできました。


Via del CROCIFISSO にあるRONCO1への入り口とロンコにある私の家の玄関。


どの家もまず最初鉄扉がありその後にガラスや木のドアがある、我が家はガラスの玄関ドアー。写真左は玄関内側より屋外 RONCO を見たところ。右は玄関入ってすぐキッチン兼勉強机(さらに一段下の居間で何か調べたり書く事はしっけで不可能、、)


左は居間、右の写真は寝室から居間を見たアングル。壁の厚さ1m以上、広いサロンでインテリア等は悪くない、ただ昼でも電気をつけないと本当に真っ暗。部屋にはしっけを少なくすためにいつも大きなキャンドルを買って用意(クーラー兼暖房、湿気抜き装置機付の家ですが...)

上の写真は Via del Crocifisso 通り、奥に見えるのがユダヤ地区の中心シナゴーグ跡に再建され地下にユダヤ清めの風呂が発見されたSan FILIPPO 教会
狭くてもこぎれいに管理されている Via del Crocifisso 毎朝この路地を我が家のあるRONCO 1°から出ると Via della GIUDECCA 方向に行き San FILIPPO 教会につきあたる(タバコ屋の看板Tがあるヶ所)さらにこの教会脇 VICOLO II ALLA GIUDECCA 通りをひたすら真っすぐ歩く。この路地を散歩しながら左右に目をきょろきょろさせて、何千年前のユダヤ人の生活風習とメンタリテイーに思いを馳せる、、今の人達は「ここに住んでいたユダヤ人はゲットーではなくて自由だったんだよ」と言います。本当かどうか私には恐ろしくて推察したくない、、ただ変な想像をしてみたり、、何故こんなに狭い路地なのか? もし路地の始まりに鉄扉をかける必要があったら?夕方又は朝方それが閉まったら?おまけに外から閉まったら?歴史考証で確実な研究結果なく想像するのは(歴史捏造に注意)よくない、止めたっ、、と、、どんどん歩いて行くとしまいに海にぶちあたります。そこでマニアチェ城の方向にむかって太陽をあびつつ海沿いをぶらぶら歩きVia Romaのはずれにあるミニマーケットに買物に行く、これが私の朝の日課。
Vicolo II alla Giudecca に毎朝地面にウニを山の様において真二つにわり中のウニをスプーンで丁寧に一本一本すくっている家族がいます。毎日彼らの前を通るので最後には挨拶しあう様になりました。家の中ではおばあさんが暗い中で光る巨大テレビを見ていました。ぎぇー、、日本人なら、何をさしおいても、まず太陽のあたる家に移る事を考える。暗い疑り深い目でじーと見るので、ちっと怖くなり挨拶もそこそこに退散しました。ちょう巨大なダイヤの指輪がおばあさんの指にキラキラ光り、、その瞬間ただの怖さでは無く、何か全メンタリテイーが衝突し合う様な戦慄を感じました。(んま〜そんなダイアモンドが買えるのなら、日の当たる家に引っ越す事を、と、、おせっかいに考えました)、、その夜ジュデッカの我が家の暗闇でハッと思い当たった一つは、何故吸血鬼ドラキュラがユダヤ人のメタフォラ物語になったのか?またドブネズミのメタフォラは地下道を利用する事からきたのかな?、、
文明の衝突 ? メンタリテイーの違い? それとも濁流の交差点か?と、、いつも静かに悩みますが、世界には理解不可能なメンタリテイーがガンと有る事を再認識しました。アル意味でこれか らの研究課題として的を射ているので、この意味深い周辺をゆっくりこれからも勉強していきたいと思っています。日本でよく出会うノホホンとした幸せな目の老人はここには見当たりません。この問題の糸口が何とか見つかった時、日本人は皆がなりたがっている国際人になれるのかも? ただ珍しい貴重な日本人の良い点を捨てて、そこまでして国際人になる必要があるのだろうか? 、、生き残る為にはもっと相手を知る必要が、、
それでこれからの世界は各文明文化の歴史とメンタリテイーの深部研究分析が大切「もっともっと勉強しなければいかんな〜」と私はユダヤ文化や各国ユダヤ系のメンタリテイーを 知りたいと興味を持ってあれこれ見て回ります。(かつて米国が「菊と刀」で私達を研究した様に、まず知る事が重要です、これは愛とは次元が違います)自分に何かとちょっかいだす者(ま〜ちょっかいくらいな らいいのですが、もっとひどくなる可能性も大いにあります、又その逆もありえますが、、)対する相手をよく知るために研究するのは大事な事だと考えるのです。
このブログのメインストリートである1990年代のイタリアと日本の姿。そして交差点になった湾岸戦争以後 日本は たたきがいのある、はらいせ役にぴったりな国になってしまいました。愛してくれた他の国がさっぱり見えず解らず、とんちんかんでトロイ、鈍感な国に落ちていったのです。誰も興味を持たない政治と外交をもつ国として、、その後は国際社会の舞台から少しずつ脱落していきました、、、
あれこれつくづく考えさ せられたジュデッカ暮らしの月日でしたが、その内さすがにタフな私も太陽不足と湿気で心理的にまいってきました。9ヶ月間がんばりましたが、引っ越しをする決心をつけ、アパート探し、幸い友人の応援で良い家が見つかりました。新しい家は太陽がいっぱいですが、インターネットまだ無し。そんなでフォト アルバムが続きます、、
SAYONARA QUARTIERE EBRAICA CASA MIA !!
sabato 17 luglio 2010
MERCATO DI ORTIGIA 毎日オルテイジャの朝市へ
相変わらず我が家からVIA DIONE (紀元前の人、思想ではプラトンの弟子、実際ではプラトンの君主)を通り毎日せっせと朝市に出かけます。とても楽しい、、野菜、果物や魚に会うのは面白い、彼らも話しかけてくる様に思えて、、何を?それは、その色々と、何せこの朝市が大きな日課、ま〜一日中リラックスか?(昼ちょっと又夕方からはちゃんと画廊で働いています)

相変わらず食べるのは生ハムとメロンが続いてます。昨日も今日も、、
朝市巡り


名産パッキーノトマト、チェリー型各タイプが勢揃いバカでか茄子も


茎とつるむ先っぽが美味しいそう、タンポポの葉っぱも安売り中だ〜
ウエッラー !! いらっしゃい ! いらっしゃい ! 魚が新鮮だよ〜 !!
生きのいいかけ声は大きい高めのバリトンが響く


朝市の魚屋さん達、わけの分からない魚がならんでる、こわいな〜

わーっ今日はマグロの大魚だ〜 !! 大トロ、中トロ(これは専門家にまかせます)私はイカを買ってさしみに(これなら出来る)醤油は島の郊外にある大スーパーマーケットにある。
友達夫婦のなおこさんとマリオが経営するレストラン『 LA CAMBUSA 』で海の市で特別買い付けるマグロのすしや刺身が食べられるし、又海の幸のリングイーネが美味しいのだ !! Duomo ( Ortigia )の前の通りVia delle Carceri Vecchie 12番地にある、是非お立ち寄りおすすめ。
サイトはここ http://www.lacambusa-siracusa.it/
P.S 2011年 新しく引っ越した『 LA CAMBUSA 』の住所は Ortigia の PASSEGGIO ADORNO n.9番地です。電話は同じtelefono rimane uguale : 0931465707 - 3935936445
経営者NaokoさんとMarioの楽しいBlog : http://siracusa.exblog.jp/

相変わらず食べるのは生ハムとメロンが続いてます。昨日も今日も、、
朝市巡り


名産パッキーノトマト、チェリー型各タイプが勢揃いバカでか茄子も


茎とつるむ先っぽが美味しいそう、タンポポの葉っぱも安売り中だ〜
ウエッラー !! いらっしゃい ! いらっしゃい ! 魚が新鮮だよ〜 !!
生きのいいかけ声は大きい高めのバリトンが響く


朝市の魚屋さん達、わけの分からない魚がならんでる、こわいな〜

わーっ今日はマグロの大魚だ〜 !! 大トロ、中トロ(これは専門家にまかせます)私はイカを買ってさしみに(これなら出来る)醤油は島の郊外にある大スーパーマーケットにある。
友達夫婦のなおこさんとマリオが経営するレストラン『 LA CAMBUSA 』で海の市で特別買い付けるマグロのすしや刺身が食べられるし、又海の幸のリングイーネが美味しいのだ !! Duomo ( Ortigia )の前の通りVia delle Carceri Vecchie 12番地にある、是非お立ち寄りおすすめ。
サイトはここ http://www.lacambusa-siracusa.it/
P.S 2011年 新しく引っ越した『 LA CAMBUSA 』の住所は Ortigia の PASSEGGIO ADORNO n.9番地です。電話は同じtelefono rimane uguale : 0931465707 - 3935936445
経営者NaokoさんとMarioの楽しいBlog : http://siracusa.exblog.jp/
mercoledì 7 luglio 2010
TEMPIO DI MINERVA ミネルヴァの神殿
mercoledì 23 giugno 2010
CHIESA SAN FILIPPO サンフィリッポ教会の地下
ORTIGIA 島は洞窟と地下道がいっぱい
旧シナゴーグ跡に建ったSAN FILIPPO教会の地下にあるユダヤ風呂見学 ある晴れた2010年6月16日にこの教会の修復がほぼ完了し、お披露目の行事がありました。さっそく地下にあるユダヤ風呂の見学も出来るので参加しました。


教会の前、オベリスクがあるユダヤ市場跡の広場で御開帳を待つユダヤ地区の住人、つまりお隣さんや ご近所さん達。


この教会の祭壇の絵はとても変わっていて、もともとユダヤ教のシナゴーグがあった場所に建てられたので偶像を使わないユダヤ教の教えが残っています。そのために聖壇の後ろにはキリスト像もなく、絵の中のキリストはパンかごか何か持って働いています、絵の中の聖人すべてが何か、そそくさ働いているのが面白く珍しい構図です。何とかカトリック教会風にカモフラージュしていますがユダヤ教徒が隠れて祈ったのでしょう。


地下に降りるのは危険なのでヘルメット着用が義務ずけられています。


左は地下の祭壇ここは別のミサを行った場所。右はミイラを作った穴で、ここにぶどうから作るお酢を流し込み遺体を入れてミイラ化にしたとか、、穴に落ちない様に椅子でかこってありました。ミイラになりたくないので私も注意しつつ覗き込みました。


地下の礼拝の間は広い空間で回りの壁には骸骨の絵が沢山描かれてあります。右は携帯で骸骨絵の写真を撮る女性。


左は雨水を引き入れた穴。右は先が見えないくらいどこまでも続く長い地下回廊。


螺旋階段がどんどん深く地下に下がります。右はこのユダヤ風呂へ降りる段で水は透明です。
これが禊のためのユダヤ風呂(王妃の風呂)本当に透き通った清水です。


長く続く地下回廊ですが、天井は鍾乳洞化していたので、「けっしてさわってはいけません !!」とガイドが厳しい、、


、、アレレ、、地下出口から登って顔を出したら違う San Francesco di Paola教会に出たのでびっくり、、この二つの教会は地下でつながっているのでした、、と、言う事はオルテイジャは何処までも地下道が続く街なのです、驚くほど立派な地下回廊が沢山あります。ユダヤ人は1492年に公には追放されましたが、何とか地下世界を利用して生き延びた、あれこれ推察出来ます。
シナゴーグは1693年の大地震で詳細不明とか、跡に1700年代にPilippo教会の建築開始、その後色々問題があった様ですが19世紀にほぼ完了。ただ現代になり第二次世界大戦の空襲で崩れ最近修復が終わったのが実状。この教会の広大な地下道は第二次世界大戦の空襲、連合軍(英米軍)の爆撃からこの街の住人達を守る大防空壕になったのです。地下回廊の壁には避難していた人が描いた当時の英国空軍爆撃機の落書きがありました。日本では住民は空襲で大多数が焼け死にましたが、ここオルテイジャやイタリア全国では教会の地下が立派な防空壕になったのです。
旧シナゴーグ跡に建ったSAN FILIPPO教会の地下にあるユダヤ風呂見学 ある晴れた2010年6月16日にこの教会の修復がほぼ完了し、お披露目の行事がありました。さっそく地下にあるユダヤ風呂の見学も出来るので参加しました。


教会の前、オベリスクがあるユダヤ市場跡の広場で御開帳を待つユダヤ地区の住人、つまりお隣さんや ご近所さん達。


この教会の祭壇の絵はとても変わっていて、もともとユダヤ教のシナゴーグがあった場所に建てられたので偶像を使わないユダヤ教の教えが残っています。そのために聖壇の後ろにはキリスト像もなく、絵の中のキリストはパンかごか何か持って働いています、絵の中の聖人すべてが何か、そそくさ働いているのが面白く珍しい構図です。何とかカトリック教会風にカモフラージュしていますがユダヤ教徒が隠れて祈ったのでしょう。


地下に降りるのは危険なのでヘルメット着用が義務ずけられています。


左は地下の祭壇ここは別のミサを行った場所。右はミイラを作った穴で、ここにぶどうから作るお酢を流し込み遺体を入れてミイラ化にしたとか、、穴に落ちない様に椅子でかこってありました。ミイラになりたくないので私も注意しつつ覗き込みました。


地下の礼拝の間は広い空間で回りの壁には骸骨の絵が沢山描かれてあります。右は携帯で骸骨絵の写真を撮る女性。


左は雨水を引き入れた穴。右は先が見えないくらいどこまでも続く長い地下回廊。


螺旋階段がどんどん深く地下に下がります。右はこのユダヤ風呂へ降りる段で水は透明です。



長く続く地下回廊ですが、天井は鍾乳洞化していたので、「けっしてさわってはいけません !!」とガイドが厳しい、、


、、アレレ、、地下出口から登って顔を出したら違う San Francesco di Paola教会に出たのでびっくり、、この二つの教会は地下でつながっているのでした、、と、言う事はオルテイジャは何処までも地下道が続く街なのです、驚くほど立派な地下回廊が沢山あります。ユダヤ人は1492年に公には追放されましたが、何とか地下世界を利用して生き延びた、あれこれ推察出来ます。
シナゴーグは1693年の大地震で詳細不明とか、跡に1700年代にPilippo教会の建築開始、その後色々問題があった様ですが19世紀にほぼ完了。ただ現代になり第二次世界大戦の空襲で崩れ最近修復が終わったのが実状。この教会の広大な地下道は第二次世界大戦の空襲、連合軍(英米軍)の爆撃からこの街の住人達を守る大防空壕になったのです。地下回廊の壁には避難していた人が描いた当時の英国空軍爆撃機の落書きがありました。日本では住民は空襲で大多数が焼け死にましたが、ここオルテイジャやイタリア全国では教会の地下が立派な防空壕になったのです。
mercoledì 16 giugno 2010
BALCONI ART バルコニー アート
BELEZZA DEL BALCONE ORTIGIA の バルコニー アート
欧州中部より北、特に英国人や北フランスに住む人々には夢であるテラスとバルコニー(イタリアでは家についてるあたりまえの物が、)そしてここシチリアではバルコニーに装飾を入れアートにまでしている、自然文化ではラッキーな土地、ただ歴史的には占領、侵略の連続だった不運な島。
VICOLO I ALLA GIUDECCAとVIA RABERINTOの交差にあるバルコニー


マスクがついたバルコニー
(1098年か1698年?)ギリシア領時代にギリシア悲劇が上演された歴史からか、バロックからか、面白い装飾があちこちに。
VIA CASTELLO MANIACE


PALAZZO BIANCO(白い館)建築家 Bermexio のバロック様式のバルコニー

Palazzo Biancoの玄関中庭にあるテラス。建築家BERMEXIOの顔と家紋であるサラマンダ蜥蜴が彫ってある。
VIA DELLA GIUDECCA

Via della Giudecca にある何時代か?興味がわくユニークなバルコニー
じーと見ていたら何だか 左は菊の紋に見え、右は懐かしやラーメン丼のマークに?
VIA MAESTRANZA


VIA MAESTRANZA のはずれにきたころに、ふっと空を仰ぐと、人の顔が並ぶ建築装飾のPalazzo Impellizzeri 館がある。

館を所有するシラクサ市の紋章は鷲だが何だかおどけた八咫烏に見えた
N O T O


シラクサから38kmに NOTO と言う街があります。このあたりも1693年の大地震で街が崩壊し、その後に再建築されたので当時のバロックやリベルテイー様式のバルコニーが多く残っています。自由に写真を撮るのが好きな人におすすめ。

これは壁の装飾それともバルコニー跡?何か魔除け用かな?
私の台所から見える壁に埋め込まれた小さい顔の装飾。料理をしていて気がつき ギョッとしました。(黒い影はキッチンのブラインド)
小奇麗な街ではない、でも毎日の日常生活にアートが共生している、歴史上は軍事、政治、アート、宗教面でも、足で泥靴で踏み倒され上から塗りたくられたにもかかわらず、古い物が、がんとして残っている、面白い。
欧州中部より北、特に英国人や北フランスに住む人々には夢であるテラスとバルコニー(イタリアでは家についてるあたりまえの物が、)そしてここシチリアではバルコニーに装飾を入れアートにまでしている、自然文化ではラッキーな土地、ただ歴史的には占領、侵略の連続だった不運な島。
VICOLO I ALLA GIUDECCAとVIA RABERINTOの交差にあるバルコニー


マスクがついたバルコニー
(1098年か1698年?)ギリシア領時代にギリシア悲劇が上演された歴史からか、バロックからか、面白い装飾があちこちに。
VIA CASTELLO MANIACE


PALAZZO BIANCO(白い館)建築家 Bermexio のバロック様式のバルコニー

Palazzo Biancoの玄関中庭にあるテラス。建築家BERMEXIOの顔と家紋であるサラマンダ蜥蜴が彫ってある。
VIA DELLA GIUDECCA


Via della Giudecca にある何時代か?興味がわくユニークなバルコニー
じーと見ていたら何だか 左は菊の紋に見え、右は懐かしやラーメン丼のマークに?
VIA MAESTRANZA


VIA MAESTRANZA のはずれにきたころに、ふっと空を仰ぐと、人の顔が並ぶ建築装飾のPalazzo Impellizzeri 館がある。

館を所有するシラクサ市の紋章は鷲だが何だかおどけた八咫烏に見えた
N O T O


シラクサから38kmに NOTO と言う街があります。このあたりも1693年の大地震で街が崩壊し、その後に再建築されたので当時のバロックやリベルテイー様式のバルコニーが多く残っています。自由に写真を撮るのが好きな人におすすめ。

これは壁の装飾それともバルコニー跡?何か魔除け用かな?
私の台所から見える壁に埋め込まれた小さい顔の装飾。料理をしていて気がつき ギョッとしました。(黒い影はキッチンのブラインド)
小奇麗な街ではない、でも毎日の日常生活にアートが共生している、歴史上は軍事、政治、アート、宗教面でも、足で泥靴で踏み倒され上から塗りたくられたにもかかわらず、古い物が、がんとして残っている、面白い。
Iscriviti a:
Post (Atom)