martedì 29 dicembre 2009

ORTIGIA TO PARIS  ただいま〜

『ただいまぁ〜』パリの我が家に帰ったよぉ〜 ritorno a Paris, casa mia
                              
questo è il cielo di Paris                     
パリの空

フギャーこれが家に帰って来て見たパリの空、シチリアの青空とどーしてこう違うんだろ〜
おまけに23°の島から2°の大都会 Parisで
寒い〜 。Ortigiaでは太陽の下で日焼け中。
CDG空港にオーバーを持って出迎えてくれたけど、ホント冷え込みます⁂                     



                       mio cicramino
 
 
    我家のシクラメン花咲く
バルコニーにおいてあったシクラメンが見事に咲いて大感激、と言うのは一度全て死に絶えたかと、もうダメかと思っていたら、、やはり奇跡はあるのだな〜 (なんちゃってシクラメンは冬に強いのだ、、) 沢山家族がふえちゃって、すあわせそ〜♪ ♫               


              


funghi neri funghi gialli funghi bianchi

家の近くRue Daguerre の八百屋のおっちゃんがなつかしげに挨拶してくれる、店にはフランス人がよく食べる色々な種類のシャンピニオンが沢山並んで(白、黒、黄色 これ全て きのこ)


                    
サンミシェルまで散歩
S.Micheleに挨拶
   










Rue de Seineまで散歩の続きそこで見た さて これは何でしょう? ??

         

これは古本屋のウインドウーじゃないのだ、写真は携帯で撮っているので focus が悪くガラスに反射した向かいの家が映ってしまいましたが、この古色蒼然とした古本とか懐中時計やメガネ、板まで油絵です。(今時んま〜 、、とか思ってつい笑いたくなりますが、、)笑ってはいけませんよね、、 真面目に感心しましょう、、師走ですから。(関係ないかな)

しばらくぶりに娘と一緒に楽しいクリスマスとお正月をパリで過ごします。

みな様にステキな年がくる事を祈ってます。

giovedì 24 dicembre 2009

ETNA E FUJISAN   エトナ と 富士山

B U O N E  F E S T E !!    B U O N  N A T A L E !!

ETNA   ANNEVATO


今年2009年のクスマスイブ24日はエトナ山の上空を飛びました、とても奇麗なのであわてて携帯でシャカッ。頂上の雪を見ながら何故か富士山によく似てるので「あれー」と思い、おまけにこぶがあるのまで同じなので驚き。ちなみにエトナは高さ3340メートルあり、これも噴火の状況で変化するとかで、こうなると高さまで似てます、ただエトナは今も火を噴いている最中のすごい噴火山です。昔私の住んでいた町のイタリア人主治医がエトナに登山にいってあまりにも噴火口に近過ぎ溶岩をあびて死亡した事があり、当時あきれるやら、と同時に噴火ってほんとうに怖いんだなーと感じました。

ORTIGIA の星


これはシチリアのオルテイジャ島の夕焼けです、、とても美しいクリスマス

今年も皆様にとって良いクリスマスで家族と楽しくお友達と仲良くプレゼント交換して下さい、イタリア式に「クリスマスは家族と一緒に」そして「お正月や復活祭は好きな様に」とよく言われていますが、、

では " NATALE CON I TUOI " でいきましょうか、、

もともと無宗教な私にはもう好きな法王はいないので宗教的な儀式には興味が湧きません。心の中で GIOVANNI PAOLO II に話しかける事にしようと思います。 

venerdì 18 dicembre 2009

GUERRA DEL GOLFO-AMORE E ODIO 愛と憎悪     

IGOR MAN と JENNIFER JONES 死亡ニュース

このブログのモチーフである20年前の状況をメモ書きしていると、ピョコンと目の前のニュースに私が書こうとしている同じ人物が出て来る時がよくある。

IGOR MAN イゴール マン(9/10/1922 - 16/12/2009)

今回も湾岸戦争当時私がよく見て参考にしていたRAI TV深夜トーク番組の話しをしようと用意していたらこの番組のメンバー PAOLO GARIMBERTI と共にイラク国内、サダムの政権解説や湾岸戦争是非論争をしていたジャーナリストで中東アラブ問題に詳しい IGOR MAN ( 本名 IGOR MANLIO MANZELLA ) が18日に87歳で死亡のニュースが流れてきました。

Vatican Archivio の中にある Jubilaeum DD2000 のTERTIUM MILLENNIUMにあった彼の記事GESU CRISTO Il volto dell'innocente negli orrori delle guerreより一部抜粋しました。

Convinto, come sono, che nessuna guerra sia "giusta"
anche se qualcuna è imprescindibile...

どんな戦争も正しいものなどは無いと確信している、
(略)
Una volta la società accettava la guerra "perché la guerra risolve". A quelli della mia generazione insegnavano che la guerra era un "male necessario". Oggi è diverso.
昔「戦争で解決する」と社会は戦争を認めていた。私の世代には戦争は「必要悪」と教えられてきた。今は違う。
Mi dice un Cardinale-Pastore, oggi tutti hanno capito che la guerra non risolve nulla, dà solamente la medesima illusione dell'intervento chirurgico su un organismo mitragliato dalle metastasi d'un tumore cattivo. «La pace, invece, fermando la corsa della morte, salva la vita, dona la speranza della giustizia».

(略)
Già, l'Iraq. 15 di febbraio del 1991: alla Tv di Amman lo speaker piange. Passano sul video le immagini della strage nel bunker "non intelligente" centrato da una implacabile "bomba intelligente".
既に1991年2月15日、アンマンのTV解説者は泣いていた。Video にはバンカー防空壕内に落下した " bomba intelligente 利口な爆弾 "と言われた " non intelligente 馬鹿爆弾 " の爆撃惨殺の映像が流れていた。 

"E' un crimine contro l'umanità, hanno colpito un rifugio con centinaia di donne e di bambini. Fermate il genocidio", singhiozza il conduttore. E' il telegiornale delle ore 19, il più seguito al di qua e al di là del Giordano.
「人類に対する犯罪だ、避難していた何百人という女子供が殺された。虐殺を中止してくれ」ニュース解説者はしゃくりあげて泣いている。ヨルダンのむこうとこっちで一番皆が見ている19時のテレビニュースである。
La guerra pressoché senza immagini ha ora un'immagine antica: la morte degli innocenti.
(略)
...................., la cultura della guerra è morta col Vietnam.
 
「戦争文化はヴェトナムと共に死んだ」私が強く印象に残っているのは彼のこの言葉です、そうヴェトナム戦争以後、世界の歴史上にあった戦争という定義が消えてしまったのです、その後は単なる戦略上の捏造戦争にすぎません。この事はイゴール マン以外にも今のイタリアジャーナリスト達は気がついています。

彼はLa Stampa の編集長を長く勤め、又インタビューの難しい人々 SADDAM HUSSEIN や KHOMEINI 等に会って話しを聞いている。著書も多く1992年には DIARIO ARABOを出しました。  


AMORE E ODIO 愛 と 憎悪 - Guerra del Golfo & Cinema

JENNIFER  JONES ( 2/03/1919 - 17/12/2009 )

2009年12月17日に女優のジェニファー ジョーンズ(本名 Phylis Lee Isley )が高齢で死亡のニュース。もっとも女優よりこの映画のモチーフが私にとって重要なのです。彼女が出演した映画「白昼の決闘」が1992年にTVで放映されていたので、丁度来年の予定「愛と憎悪」のあたりで入れるつもりでしたが、追悼の意を表しここに載せます。

DUELLO AL SOLE 1946年度作品 KING VIDOR 監督 プロデユースDavid O. Selznick

http://www.youtube.com/watch?v=DbK_9GpS3_U&feature=related


出演者 Gregory Peck, Joseph Cotten

dall'articolo critico paker
La storia di erotismo tormentato, di odio e amore dei due protagonisti riesce a superare la morale dell'epoca (e di oggi).
E' giustamente famoso il fiammeggiante finale. Impressionante non tanto per la risoluzione estrema del conflitto passionale che ha animato il film, quanto per la sapienza della messa in scena di una sequenza che dovrà riassumere un film comunicando elementi in forte contrasto.

In ogni inquadratura e in ogni scelta si respira odio e amore.
全てそれぞれのシーン、アングル毎に愛と憎悪が息ずいている。

一度DVDで懐かしい往年の俳優達を再度見て下され「そうですね グレゴリー ペック若くて ハンサムでしたね〜 最後は J.J の黒シャツ姿がセクシーですね〜 ラストシーンいいですね〜 はい さよなら さよなら、、、」と
にぎにぎ。淀川氏も亡くなりましたね 残念ですねェ〜

mercoledì 25 novembre 2009

GUERRA DEL GOLFO   湾岸戦争考

湾岸戦争とは? 何の為に?

1991年代の湾岸戦争は非常に沢山の課題を世界にそして日本に投げかけました、特にメディア情報操作、捏造、米国政府広報の総力を投じての攻撃はそれはすごい物で大いに情報リテラシー研究ができましたが、でも何故?

私には何故こんなにも日本を集中攻撃する必要があるのか?と疑問が浮き上がって来たのも確かでした。そしてネオコン勢力が台頭する時期にもなりました、、

他国のメディアもイタリアメディアを見ているうちに米国の態度が少しおかしいと気ずき始めます。

湾岸戦争時、ミラノで働いていた私は米国政府の変態的な異常な態度にあきれ果て、何だか毎日とっても疲れました。ついには丁度道の途中にあった米国領事館をさけて勤務していた会社に通い始めたものです。日本を売春婦の様な女(国)とまでイタリアを使ってわめいた米国情報機関や国防総省。おかげで?メディアでは日本国は売春婦から始り、どもり、聾唖者、盲人、身体障害者、ゴールデンボーイ又はおしゃぶりやおしめを付けた赤ちゃんなどに変化していきます。世界が日本を可笑しく楽しむ分にはちっともかまわないのですが何かが私の中でこれだけではダメだと繰り返しささやいたのです

さらに日米関係は何となく男と女の人間感情関係が連想出来てそんなイメージが出来上がってきます。これは主に1992年の伊メディアが語るメーンテーマになるのでここでは書きませんが、詳しくはこのブログでは来年になるでしょう。

この米国の態度は今からでも遅くないのでよーく分析する必要がありそう。こうした戦略をう まくあしらうこつと利用するデイプロマテックでかつプラグマテイックな知恵を考える時がきていたのかも知れません。湾岸戦争中はその色々なメディアリテラシーを分類整理出来た良いチャンスでしたが、ただそれを理解分析出来る年齢にも至らず、相変わらず子供みたいで相手にならなかった、というのが日本の現実の姿でしょうか。

その後は多分徹底的に潰されるか、女中か奴隷扱い、あるいは殺される運命の様にも見えました。

後年フランスJETROのスタッフと話した時『日本は奥さんなんだから、妻らしく乱暴な夫の暴力を注意すべきでは?』と言ったら、彼は『奥さん?冗談じゃない、日本は女中ですよ、こき使われる女中にすぎない』との哀しい答えが返ってきました。これは1992年の宮沢総理時代のイタリアメディアから読み取れるので、来年書くチャンスがきます。

戦後(第二次世界大戦)から長い年月、日本人としては全く奴隷の様な関係ですが、日本は国際上は表面的には奥さん役をやらされていました。90年代は小切手を気前よくばらまく奥さん(本当は家庭内暴力夫の内妻と言うのが正しい姿)ですがそれは現在湾岸戦争から20年たった今、やっと国際社会が気がついてくれて、あちこちで言われているのですが、本当に今までどの国も気がついてくれませんでした。

湾岸戦争が何故ひき起されたか?それには1980年代のイタリアの日刊紙に書かれた日本関係記事をピックアップすれば良いのですが、いまそれをしている余裕がないので、はしょります(すいません)。

80年代の日本の経済力、治安の良さ、学校教育の成功、犯罪検挙率の高さ等どれをとっても素晴らしい状態、おまけにまだ永久就職システムの時代で、それに比例して失業者率の低さ等々これらの記事が連日と言えるほど伊日刊紙や雑誌に掲載されました。どれをとっても米国にとっては『しゃくのたね』事項です(米国だけではないかも?)。ましてイタリアメディアでは日本は米国との戦争には負けたが経済,社会構成の視点では勝者になった、とまで書いて日本は大成功だと喜ぶありさま。これらの情報は米国にとってはそうとう『カチン』と頭にくる出来事に違いありません。何せ自分が何が何でも一番強くて良い国と思い込んでいる軍事国家参謀にとっては、、

特に第二次世界大戦では米国にとって敵国同士の日本とイタリアが仲良く馬があうのが一番気にいらない、これは誰が見てもはっきりしている事です。

この頃からイタリアメデイアを使って色々な操作を始めた様です。日本のミサイル技術の探索をイタリア人記者を通じて探ったりします。丁度湾岸戦争後に種子島に行くと言うイタリア人記者に会ったのを思い出します、『種子島に何しに?何もないのに?ポルトガル人が鉄砲伝えたという歴史で有名な島だけなのに?』と尋ねると『イヤーちょっと行ってみたい』本音は日本のミサイル技術が何処までのレベル?調査でしょうか。当時種子島には東京大学がロケット発射研究している海の宿舎があり、ピョーとロケットが半円を描いてボットッと砂浜に落ちて不成功していた時代でした。私は内心可笑しくてケタケタ笑っていましたが、それを隠してイタリアの記者と話しをしなければならず、苦労したのを可笑しく思い出します。

この湾岸戦争考はづーと続けます、型を変えていつまでも、、、

もしや今も続く戦略INSIDE戦争の始りだったのかも、、、

giovedì 5 novembre 2009

ARTISTA NATO A COMISO  コミソ生まれの芸術家

コミソのアーティスト ジョヴァンニ ラ コニィアータの個展 

5 – 31 Dicembre 2009 10:00-13:00 17:00-20:00

" QUADRIFOGLIO " GALLERIA D'ARTE CONTEMPORAREA
di Mario Cucè . http://www.galleriaquadrifoglio.it/
Via SS Coronati, 13 96100 Siracusa Tel: 0931 64443

Inaugurazione sabato 5 Dicembre ore 18:00

Giovanni La Cognata ( nato a Comiso 1954)

                Siracusa

Si tratta di paesaggi di campagna immersi nella luce degli Iblei e scorci urbani. Ma non solo.
Tra le opere in mostra anche un inedito paesaggio con figure dal titolo " Siracusa " che riproduce uno scorcio di Piazza Duoma ad Ortigia, affollata da turisti ed inondata da una calda luce estiva.

               Campo giallo


               luce di marzo

L'Artista comisano torna ad esporre a Siracusa dopo tredici anni negli stessi spazi della Galleria D'Arte " Quadrifoglio " La mostra presenra tredici opere di media e grande dimensione realizzate tra la fine degli anni Novanta ed il 2009.

               paesaggio

opere : olio su tela

Giovanni La Cognata vive con la moglie Irene e la figlia Giulia a Comiso ( Ragusa ) dove è nato il 27 luflio 1954.

友人マリオの現代芸術画廊でコミソ生まれのアーティスト ラコニィアータの個展があるので紹介します。
コミソはシチリア島のなかで大きな元ミサイル米軍基地のある街です。

domenica 1 novembre 2009

ARTISTA DI CANICATTINI カニカティーニのアーティスト

ETTORE  GAZZARA    Artista di Canicattini

私の友人でミラノ( mio amico della classe '68 di Brera a Milano )で同じ美術アカデミーで学んだカニカティーニ(シラクサ)の同期生エットレの作品と家族を紹介します

自分のobjet作品を説明するEttore


彼の噴水作品の前で夫人と娘のリンダ

        

Objet di Ettore彼のオブジェ作品 卵
                  due sedie molto provocante : 
                   SEDIA DEL CHIMICO &
    SEDIA ERMAFRODITE




per Libro di poesiaこの作品は彼が ANTONINO UCCELLO (poeta nato a Canicattini Bagni, 13/09/1922 - 29/10/1979 )の詩集の為に描いたイラスト集です。沢山の作品から私が気に入ったページを撮りました。

MADRE AKREIDEA




LA NOTTE D'ASCENSIONE






これは上記詩集のイラストとは別
キリストの受難をモチーフにした作品

『 苦難の影 』
L'OMBRA DEL DOLORE





彼は他にもジュエリーの創作もしていて最近はANGLO GOLDからジュエリーオスカー受賞し、作品は日本にも巡回展示されたそうです。

Opere i gioielli : Ettoreのジュエリー作品 (collier, anello, bracciale)

Il premio è stato assegnato dalla Fiera di Vicenza,Anglo Gold, Word gold Council 2000.


il gioiello che ha partecipato al GOLD VIRTUOSI 2002 che ha ricevuto la nomination.




もともと舞台装置を専攻していたのでとても美しいネックレス、指輪、ブレスレットを制作していました。オパールで楕円形のばかでかい指輪作品を見た時『誰がするの?ソフィアローレンじゃあるまいし』と言うと、あきれかえって『今流行ってるんだよ』気の毒になってきたら,奥さんが『いいのほら私が使うからー』と自分の指にして、夫婦でかばいあってその姿がとても可愛くて,幸せなんだなーとこっちまで暖かくなった日でした。
Ettoreごめんね、、

domenica 25 ottobre 2009

GIORNALISTI & SERVIZI SEGRETI ジャーナリスト & スパイ

Ennio Caretto       日付け不詳     Corriere della Sera

Stati Uniti : per i servizi segreti sono piu utili in alcuni casi dei satelliti  

I giornalisti-007 restano nel libro paga Cia

DAL NOSTRO CORRISPONDENTE
Washington – La Cia continuerà a servirsi di giornalisti come spie, sia pure solo in casi eccezionali, nel rispetto delle restrizioni imposte nel ’77. Lo ha dichiarato ieri il suo direttore, John Deutch, l’ex sottosegretario alla Difesa, stroncando le polemiche esplose dopo un rapporto del Consiglio delle relazioni estere.
Il Consiglio aveva chiesto che, in osservanza dell’autonomia dei media, la Cia cessasse di ricorrere a loro per operazioni di spionaggio e controspionaggio. « Nel dopo guerra fredda – ha dichiarato Ddeutch – il fattore umano è diventato ancora piu importante. Contro il terrorismo i satelliti artificiali sono inutili ».
La Cia ha riaffermato cosi l’onorata tradizione dei giornalisti agenti segreti, che risale ai suo antesignano l’Oss, fondato nella Seconda guerra mondiale e sciolto alla sua fine. Uno dei piu fammosi 007 americani in Italia durante il confritto fu un giornalista, Peter Tompkins, infiltrato a Roma. E tra i James Bond britannici figurarono Kim Philby, che poi tradi passando alla Russia, e il romanziere Graham Green, distaccati inizialmente a Lisbona. Si dice che alcune tra le migliori penne USA, come i fratelli Alsop, fossero al servizio della Cia negli anni ’50.
Perché proprio i gionalisti ? Deutch ha risposto che non formano una categoria speciale, ma che hanno molta libertà di movimento, come gli uomini d’affari. E ha spiegato : « Tradizionalmente , gli agenti USA all’estero passano per diplomatici. Ma cio li limita, la maggior parte del tempo devono restare in ambasciata. E oggi oltre al terrorismo siamo chiamati a combattere la droga, il traffico di materiale radioattivo e via di seguito. Ci vuole mobilità ».
Sulla questione, il Congresso si è spaccato in due. Mentre molti democratici protestano che il gionalismo e lo spionaggio sono e devono restare incompatibili, i repubblicani ritengono che si possa fare qualche eccezione. L’ex consigliere della sicurezza della Casa Bianca Brent Scowcroft li ha appoggiati : « Il problema non sono i media – ha detto – il problema è l’efficienza della Cia ».
Il Comitato sulla sicurezza dello Stato terrà un’udienza a porte chiuse.
Il commento di William Colby, l’ex direttore della Cia durante la Guerra fredda : « In un mondo ideale, i giornalisti non fanno le spie. Ma nel mondo reale è sempre capitato. In questo i sovietici ci furono maestri. I loro corrispondenti all’estero erano in maggioranza spie ».

これは1990年代はラレプッブリカ紙にいたエンニオ カレット記者が後年コリエーレ デラ セラに書いた記事で、日付けが不明なので(日付けのヶ所が欠けてしまいましたごめんなさい)湾岸戦争後だいぶたって書かれたものだと思います。諜報員とジャーナリストの関係を少し明確に書いた記事ですが、カレット記者は主に米国の国防総省や諜報機関に詳しく、特にラングレー関連の会社情報を提供してくれます。彼のような記者がいる事がいかにイタリアの国が有利な立場にいられるか,日本人の私はよだれを出してただただ「伊は、いいなぁ〜いいなぁ」とつぶやいているのみでした、、

湾岸戦争をきっかけに世界は豹変していくのですが、その変貌の生きた証人達として直に伝えてくれたのがイタリアの強くて勇気あるジャーナリスト達でした。彼らが書いている記事からも日本の対世界状況の変貌していく輪郭が読み取れたのですからとても参考になりました。ただ日本が彼らの発信をキャッチして分析出来なかったのが、、残念。

湾岸戦争から20年近く経った今は、このイタリアの強かったジャーナリスト達が前戦から離れ、自分の考え主張を堂々と書ける記者が少なくなり、と言うか書けなくなった状況がちょっと不安ですが、イタリア人の強さできっと彼らの本来の特徴を取り戻す事でしょう。

さて上記のカレット記者は1991年の年末に私にとって目玉記事がラレプッブリカ紙に載ってますので,その時に再度登場してもらいます。