venerdì 25 aprile 2008

COMICI ITALIANI イタリアのお笑いトリオ

MAI DIRE BANZAI ( 風雲!たけし城 )1989-1990

お笑いコメンター トリオGIALAPPA'S BAND が一躍人気独り占め

湾岸危機前に始まったこのTV番組(1989年末から1991年も再)でイタリア中が馬鹿笑いの渦に巻き込まれました。それはすごい人気で見ない人がいなかったくらい。このタイプの笑いは なかなか見られないので よけい受けたのでしょう。MAI DIRE BANZAI が可笑しい面白い日本人というベースを作ってくれました。この番組をコメントしたのが GIALAPPA'S BAND 、これで彼らは一躍有名になり、その人気は今でも続いています。本当に画面ゲーム中の彼らのコメントの面白さは右に出る者なし。例えば日本の各大学名と成績が漢字で出ていると「画面はカッリアリとウーディネが優勢と書いてある」とか「日本の高貴な文化の精神は何しても痛いところにあります」「マッカーサーが日本人は12歳の国民と言ったが、それは間違い120歳です」だだでさえナンセンスなゲームに、更に彼らは、ほとんどメチャクチャなコメントを入れる。今まで持っていた日本人についての知識と反対なのでそれがよけい可笑しく、イタリア中お腹が痛くなるほど笑い転げた。

この番組から超一流人気 (声のコメンター トリオお笑い芸人) 者になった ジャラパス バンド は Carlo Taranto , Marco Santin , Giorgio Gherarducci の3名

この番組からも湾岸危機には「今の日本人は戦争には向いてない、楽しすぎる、独りで遊んでる、でもそれでも良い」という潜在的な常識がイタリア人の中にふくらんでいった。当時の海部首相が日本の戦争参加か否かで悩んでいた時期はイタリアでは日本は参加しなくてもちっとも違和感はなく、かえって不参加なのを尊敬(うらやましい、みあげたものだ)の感情を持って納得してくれていた。ヨーロッパ一帯がその気持ちでいたようだが日本からは反対にドタバタした感じが伝わって来る。ここに日本の不幸がある、国際社会が思っている事と 国際社会からこう思われているのでは、この間の食い違いが激しい。これはただただ日本が米国ばかり気にしていて欧州各国の想いを読めなかった点にもある。「日本は憲法上戦争に参加出来ません」と最後まで貫いたら かえって立派だったのに、残念。

martedì 22 aprile 2008

PICCOLO GRANDE AMORE   小さな大きい愛

Claudio Baglioni

クラウディオ バリィオーニの声が長靴中にこだまし、大人気でしたね 今では親子で歌われています。あの頃「猟銃」と言う日本映画がFUORI ORARIO(真夜中の映画番組)でTV上映されました。映画の中で佐分利信が山本富士子の恋人役に会うシーンで軽く敬礼、その後伊政府要人が日本を訪問した時に、海部が握手の前に軽い敬礼で出迎えたシーンがTVニュースに映っていました。このジェスチャーを素早くとってクラウディオ バリィオーニはこの曲を歌う時に軽い敬礼をしていたのが懐かしいですね。
辛かった戦争中をこの素晴らしい歌詞で、沢山の人達がのりきったかも

QUESTO PICCOLO GRANDE AMORE この小さな大きい愛

quella sua maglietta fina
tanto stretta al punto che mi immaginavo tutto
e quell'aria da bambina        
che non glielo detto mai ma io ci andavo matto
e chiare sere d'estate
il mare i giochi e le fate
e la paura e la voglia
di essere nudi
un bacio a labbra salate
il fuoco quattro risate
e far l'amore giù al faro...
ti amo davvero ti amo lo giuro...ti amo ti amo
davvero!
e lei
lei mi guardava con sospetto
poi mi sorrideva e mi teneva stretto stretto
ed io
io non ho mai capito niente
visto che ora mai non me lo levo dalla mente
che lei lei era
un piccolo grande amore
solo un piccolo grande amore
niente più di questo niente più!
mi manca da morire        死ぬほどなつかしい
quel suo piccolo grande amore   ちいさな大きい恋人
adesso che saprei cosa dire    今 何を言えばいいのか分かる
adesso che saprei cosa fare    今 何をすればいいのか分かる
adesso che voglio         今 小さな大きい愛がほしい 
un piccolo grande amore
quella camminata strana あの 誰の中にいても気がつく変な歩き方
pure in mezzo a chissacchè l'avrei riconosciuta
mi diceva "sei una frana"
ma io questa cosa qui mica l'ho mai creduta
e lunghe corse affannate
incontro a stelle cadute
e mani sempre più ansiose
di cose proibite
e le canzoni stonate
urlate al cielo lassù
"chi arriva prima a quel muro..."
non sono sicuro se ti amo davvero
non sono...non sono sicuro...
e lei
tutto ad un tratto non parlava
ma le si leggeva chiaro in faccia che soffriva
ed io
io non lo so quant'è che ha pianto
solamente adesso me ne sto rendendo conto
che lei lei era
un piccolo grande amore
solo un piccolo grande amore
niente più di questo niente più
mi manca da morire
quel suo piccolo grande amore
adesso che saprei cosa dire
adesso che che saprei cosa fare
adesso che voglio
un piccolo grande amore...

lunedì 21 aprile 2008

GUERRA DELLA PUBBLICITA 広告戦争

STRATEGY OF ADVERTISING     広告戦略






湾岸戦争中は沢山のパラレル戦争がありました。上は日本メーカーの広告。あまりに悲しくて以前の S 社に電話した様にこの会社(イタリアの販売会社で日本人はいなかった)丁度家の近くだったので訪ねました。別に怒りに行ったのでは無く「コピーライトの理由、どのくらいの広告期間契約なのか?」訪ねたかっただけ。答えは下請け広告スタジオが作った由「あと4ケ月で終わります」「あのメーンコピー モルディ エ フジ かみついたら逃げろ はイタリア人は J をイと発音するので正しい製品名を覚えてもらう作戦です」きっと立派な正論が帰ってくるのは覚悟していたので「日本人としてあまり嬉しくない表現」と伝えて帰宅。 いずれあと4ケ月で終わる、、、それまでの辛抱、、と。 







右はイタリアの旅行会社の広告。表現が大変ユーモラスでちょっと気の毒 でも可愛いい、広告として成功。メーンコピーは 「ヴァカンスなど 一度もした事ない」働き過ぎでは? 










左は「早く! 酸素を」 「初のピューアーな酸素増力機 」のコピーライト。子供がガスマスクをつけ、後の両親は何か死んでる様なシーンは 時が時なので (当時サダムの毒ガスミサイルを心配したイスラエルの人々はガスマスクを用意)この広告には大分クレームがついた様です。日本企業の広告ですが、日本人がからかわれるのも悲しいですが、これからは広告表現にはクリエイティブや各部門にまかせっぱなしでなく注意を払う方がいいですね。

domenica 20 aprile 2008

CONCETTO DI GIORNALISMO   ジャーナリズムの神髄

ジャーナリストの役目              Indro Montanelli 

インドロ モンタネッリ 
Enzo Biagi dice " E quando vedeva lo strapotere di certi personaggi, si è sempre battuto cercando di rappresentare la voce di quelli che non potevano parlare "       (Foto,fonte da wikipedia)
ビアージが彼を評して「ある人間がその権力を振り回しているのを見た時、話す事が出来ない人々の為に代わりになって彼らの声になろうと常に戦っていた」

この強い彼のプロ精神はイタリアのジャーナリストに受け継がれていった様で、彼らの哲学はその人間的なイタリア人の良い面と合流して次々と強くて優秀、個性的な人達がイタリアのメディアをいきいきと呼吸させていた。

後年 モンタネッリ(1909生−2001)が読者の質問に答えるコリエレデラセラのコラム「La stanza di Montanelli」は若者にも人気があった。今 丁度 彼の「モンタネッリの部屋」が載っている新聞が手元にある。読み返していると日付が2001年6月25日 月曜日、亡くなったのが同年7月22日 死ぬ前まで読者に返事を書いていた事になる。

彼のジャーナリスト魂で強い権力に屈せず自由の身を貫いた姿勢は立派。又「どんな人(そこを歩く道端の人)にでも理解出来るように書く、、」と言う彼の精神はイタリアの日刊紙にも染み込んで、おかげで難しい問題や事件が専門家でなくとも読んでいくと分かる様になっている。

venerdì 18 aprile 2008

FASCINO DEL CINEMA いっしょに映画で癒されよぅ〜

LOUIS MALLE

「私にとって真の教育とは自由と言う物の上手な使い方を教える事にある」

そこで彼のお言葉に甘えて自由に映画を堪能しましょう。極めて自由に、、湾岸戦争中にTVに放映されたルイマルの作品をイタリア人と共に癒し映画として、、


FUOCO FATUO      鬼火   1963年
モーリス ロネのアランが適役。彼がアルコール中毒で入院しているベルサイユの療養所、彼の部屋の暖炉の上が映る、このシーンは意味深で効果的ですね。あと路上で財布(身分証明)を落としアイデンティティを失いそうになるヶ所。 友人から「いつまでも子供のままではいられない、アラン ! 大人になるんだ」と公園で忠告されるシーン。又友人の家で食事をしていて東洋のエロティシズムを語り合う場面。これらが自由な 日本の青春キーシーン。アランのイメージはつい後日の三島の姿とだぶってしまう。

ARRIVEDERCI RAGAZZI さよなら子供たち 1987年
時代は1944年、11歳の少年ジュリアンとボネ少年の物語。竹馬が珍しい(昔羊飼いが使用)。学校仲間と森でゲーム(一種の宝探し)をして遊ぶ、結局ジュリアンが宝を探し当てる、ふと気がついて回りを見ても誰もいない、ひとりぼっち、ここが大事なシーン。ヒントは一種の文明として文化や経済に秀でて、そして戦争をしない(映画は戦争悲劇)そんな子供(日本)にはただ無音の孤独が待っていた、誰も到達していない、分かってもらえない世界、だが人類が探すべき宝は獲得した。(ルイマルは「沈黙の世界」に出演したコストーの友人でありコストーは日本が大好きだったので彼から日本の実体を聞いていた)

お母さんから乳離れ出来ない年頃のジュリアンが質問「ママ 僕たちユダヤ人なの?」母親はあきれて「 Ma ! ci mancava anche questo それじゃーふんだりけったりだわ 」と怒る。

この予告編シーンがたびたびTVに出現(近日TV放映予定の為)これが馬鹿受け、湾岸戦争の時ふんだりけったり状態の日本を良く表現していた。見ていた私も可笑しくてついプッーと吹き出してしまった。ちなみにその後母親は「お父さんは自動車をつくっているのですよ」とジュリアンに説教する。(注: 映画は悲劇)ついでにビッコの告げ口悪ガキをユダヤ系金融と権力の亡者にたとえましょう、この方が癒し力が強くなります。その他沢山の含みシーンあり。ただ忘れたくないのは、この映画のユダヤ人狩りがいつか日本人狩りにならない様 賢く生きぬく宝探し。

IL DANNO  ダメージ   1992年
ビノシュが演じるアンナという女性(愛すと破滅の道をたどる)を中心にジェレミー アイアンズが演じるスティーブン夫婦とその息子の三角関係。何せイタリアはあの当時は三角関係的な恋などにビリビリしていましたから、強い感動。妻のイングリット役を演じたミランダ リチャードソンが助演賞(慰めで賞)彼女はアンナの前ですっかり影が薄く美人なのに魅力のない女そのもの。さて監督の助言どうり、自由にさせていただいて、アンナ(日本),スティーブン(英国又は欧州),彼の妻イングリット(英国),彼らの息子マーティン(米国),と思いこんで堪能しましょう。アンナの告白は日本のいざなぎといざなみ兄妹までも連想して、では内緒に そっと見ましょう。

Anna dice 「 Ho subito danno. Le persone danneggiate sono pericolose. Sanno di poter sopravivere.....」

giovedì 17 aprile 2008

INIZIO DELLA TRAGEDIA DI GOLFO 湾岸悲劇の開幕

1990年8月 湾岸危機の始まり BUSH VS SADDAM
( AMERICA VS GIAPPONE + ITALIA )

イタリアはバカンス中、真夏の2日にイラク軍がクエートに侵入し湾岸クライシスが始まっていた。私はトリエステの近くGradoの海で泳いでいたが 夕方のTVではブッシュ大統領が大声で訴えている。最初から何故か「戦争だァ」「戦争じァー」と口から泡を吹いて世界に罵声を響かせ叫んでいた。「何だ」、「どうした?」、「何で戦争なのか?」バカンス村の人々はもそもそ不思議そうに話し合っていた。

「これか、これだったのか、、長い間狙っていた復讐工作のチャンス、隠れた日本への宣戦布告だ、」私は心の中で唸った。いつかは起きると心配していた最悪の事態がこれで幕を開けた。イタリアはこの瞬間から哀しいドラマに追突していく運命を背負った。

夏も日が過ぎ、次第にイラク側に捕られた人質が増え始め日本人もTVに強制的に出されていた。イタリアの世論も戦争か否か(要するに米国か日本につくか)と真っ二つに分かれお互いに喧嘩を始めた。イタリアの国会では「何だか彼女(日本)はこのままでいくと強い男(米国)に殺されるのでは、」と不安が走り目が赤くなった政治家が大勢いた。イタリア中が「日本か米国か」の選択に迫られると言う妙な境遇にたたされてしまい、それぞれが自分の好きな方法で戦った、正当な政治戦争討論、又は隠れて戦うカラー戦争、おふざけギャグの投げあい合戦、広告TVCM/SPOT 広報戦争とメディア中も巻き込み、それはすごい愛憎戦争の始まりだった。

Bettino CRAXIのつまずき(社会党の崩壊
11月になり中曽根が日本の人質 取り戻しにサダムを訪問(中曽根老目をむき出してサダムを睨んでいたが)その後ゴルバチョフと会う予定とインターナショナルニュースのテレタイプが早朝TVに流れた, 途端にその日の午後、社会党の書記長であったクラクシが日本のこの行為を早合点して日本側につく行動を起こし、この動きは後に社会党を(様々な要素もあるが)一路崩壊への道に誘発してしまった。(又ゴルバチョフのソビエット連邦も年末には崩れていった)当時イタリア人は家に帰りTVの前に座ると突然3党に分かれると言われていた、内訳はRAI1はキリスト教民主党、RAI2は社会党、RAI3は共産党。この社会党のボスのギグシャクはその後にイタリア版大塩平八郎の乱(Antonio Di Pietro の Mani Pulite)を生む引き金にもなりクラクシは汚職事件で刑務所に入るかわりにチュニジアで余生を終る。社会党各政治家の怒りも頂点に達したが、その親派もカンカン。その頃日本企業がスポンサーでテニスカップが開催されたが、ひどい事に「何処かのへんぴな国かモンゴルかのスポンサーでこのテニスカップは、、」などと中継するアナウンサーがいた、強烈な社会党員だったようだ。他にも「一生日本を許さない、、」と豪語する党員がいた

キリスト教民主党分断と失脚
党首であり首相のアンドレオッティは戦争に乗り気が無くとうとうブシュに1本釣りされ米国から帰ると即内閣解散その後党は崩れて分断していった。もっとも彼は後にマフィアの関係者 影の参謀と調査され、消えつつある(まだいる〜)。彼の言葉は結構きつかった「何か米国から学ぶ事などあるのかね、」だが彼の内閣メンバーはポミチーノやデロレンツォなどひどい大臣が多くキリスト教民主党が腐敗後分断したのは時間の問題だったようだ。この頃の風刺は椅子の脚が一本短くて転げ落ちる様になっている映像が多く党員は「くそ〜日本なんて、、」とぼやいていた。

Pietro Ingrao(共産党)頑固老人の反骨
イングラオ老がたった独り「 NO ! 戦争は反対じゃ 」頑固に言い続けた、皆他の党員は「戦争はしたくない、、が、、しかし、、まあ、、でも、、平和論も分かるが現実は、、時と場合が、、」(罪のない女子供を殺す行為に時と場合があるのかね)こんな中で最後まで NO を貫いた老人。 勿論ソ連邦と共に雪は完全に溶け去った。(それで今 世界は洪水だらけ)

イタリアの国中が日本の為に泣いた、、心配で、ハラハラして。遅い決断、ちぐはぐな返答、外交キャッチボールが出来ない日本の世間知らず、、そんな姿を一生懸命に弁解してくれた。

Sergio Romano(外交評論家)の助け
兵隊を派遣出来ない日本がお金で支援、そしてその後の差額金の騒動に、TVは色々なお笑い風刺が流れる中、ロマーノ(外交評論家で元モスクワ大使)は「要するにアメリカの計算違いに過ぎない(戦争批判も含む)」と批判した(これは逆にとると橋本龍太郎の態度を弁護した型になる)この時彼は反対陣営からひどく非難され、ついには捏造事件もでっち上げられ、堪忍袋の緒を切ったRomanoは「決闘しよう」と言った騒動があった。橋本はその後来伊したが会議後カプリに遊びに行った、私は何故ロマーノを招待して会食しないのか理解に苦しんだ。

多額金の援助だったが後日 民主的な市民などいない独裁石油王国クエートから感謝されなかった事は日本の誇りと言える。(又日本を侮辱する絶好チャンスの湾岸戦争で日本への感謝の言葉など出る幕は無さそう)

まだまだ沢山のイタリア人が日本を思って傷つき苦しんだ、それはまるで恋人を慕う姿の様でもあった。ローマ法王(Giovanni Paolo II)は世界中の弱い者側に一緒にいたので大きな心の支えとなった。

イタリアの中にはあまりの痛みで疑う様にブツブツつぶやく人も出始めた「もしや、 俺たち同じ女性を愛してしまったのでは?」

mercoledì 16 aprile 2008

PROLOGO DI BATTAGLIA 合戦前のプロローグ

イタリア ジャーナリスト ウオッチ 

Luca Raffaelli 彼の曰く「マジンガーを見ていた子供は今大人になった、ようやく主張する事が出来る時がやってきた、皆集まろうマジンガーやその他のアニメの話をしよう、日本アニメのミーティングや会議を開催する」とトスカーナ地方にある美しい街ルッカで色々な集会が始まった記事を書いた。別の日は「なんとしても孤児でいたいシャーロット」とか、孤児が多いアニメを分析している。日本アニメの特徴である瞳の大きさのパーセンテージを分析、結論として顔の70%まできた記録を書く。彼の記事は日本アニメで育った若者達に人気があった。

Vittorio Volpi 彼の書く日本への警告は本当に心からの思いやりがあった。キューイを日本国内で栽培について彼は「キューイぐらい何故ニュージーランドから輸入してあげないのか」。バブル時代に有頂天で巨大な公民会館等を建築している時は「誰の物か分からない建物がどんどん建っていく、日本よ気をつけなさいもっと国民の為の物を、、」又日本の科学者の能力をかっていたが大学付属の優秀な学者が拙劣な環境でしか研究が出来ない状況を嘆いてくれた「だめだ、日本を背負う優秀な科学者が四畳半で焼酎を飲んでいるような環境では、、」。彼は沢山の著書のなかで政治改革の必要性を語ったが日本は聞く耳を持っていなかった「いつか日本が沈没しそうになった時、誰も助けてくれないそんな状況にしてはいけない、昔栄えたフェニキア人がいた経済だけを追い求めていけばいつか日本がこの歴史に消え去ったフェニキア人と同じ道をたどる、」何度も叫んでくれた(政府高官が彼の忠告を聞かなかったのが悔やまれる)。後日「芸者の反抗」との記事に対し丁度来伊したバナナから「そんな事件知らない」と言われた。後にイタリアUBS会長になった。

Vittorio Zucconi 彼は東京特派員だったが真っ先に現代の日本を書いたジャーナリスト。著作「GIAPPONE TRA NOI」現在はLa Repubblica.it の編集長。

Renata PisuMiriam Verrini も活躍。

こうして相思相愛の二人の関係を血に飢えた、乱暴で嫉妬深く意地の悪い怪物が、じわじわと恐ろしい策略で二人の中を裂く計画の実行に移すチャンスをじーっと狙っていた。その目は飢えた獣が獲物を観察する目と重なる。恐ろしい見えない津波がイタリアと日本に押し寄せて来ていたのには気がつかなかった。

一方私の中では何か嫌な予感が少しずつ蓄積していった、、何か起きる、、日本に、、何かとてつもない災難が、、何故か怯えていた、米国は何か悪巧みを工夫してくる、、どんな工作なんだろうかと、、、

メディアをじーっと見つめる毎日が続いた。

lunedì 14 aprile 2008

CORRIERE DELLA SERA 1876 N°1 日本は広告頁で

コリエレ デラ セラ紙 1876年3月 初年1号

 



これは1876年3月5−6日付(日、月曜日)発刊の1号版、まさか日本のニュースなど、と思ったら、あれれ一面には皆無だが広告版に立派に登場(122年後の現在もあまり変わらない、広告ページのみに活躍)日本からのオリジナル商品というキャッチコピーまでついてMilano Monte Napoleone 通りにある輸入業者Arienti 等の広告。「日本のヨネザワからのオリジナル」養蚕用の厚紙(まぶし)12リラ。蚕卵 黄色の繭(トスカーナ種)15リラ、繭白色15リラ他。他の業者も「養蚕家へお知らせ」の小広告は「当社は日本からのオリジナルを扱っています、お支払い等は良い条件で、、」既に相当な数の養蚕業者がいたと思える。2社共メーンコピーが日本からのオリジナル商品を強調しているのが面白い。ページ下方の家具は最新モデル、高級品とうたう鉄のベットや椅子の宣伝。

sabato 12 aprile 2008

GIORNALISTI  ITALIANI  イタリアのジャーナリスト

1990年代の情報伝達者でありヒーローでもあった

湾岸危機において、いかにジャーナリストが重要なポジシヨンを持つか、はっきり肌で理解したのがイタリアだった。直ぐに若者達をプロのジャーナリストに育成する機関か学校が必要だと検討された。

非常に個性豊かで人間らしさがあふれている素晴らしいジャーナリストが沢山いる、イタリアの記事は署名付きなので、それぞれお気に入りの記者の記事を読む事が出来る。

Vittorio Volpi ( Corriere della Sera), Alberto Ronchey,Marco Panara,Arturo Zampaglione,Vittorio Zucconi ( La Repubblica ), Ennio Caretto ( La Repubblica 後Corriere della Sera), Tiziano Terzani, Arrigo Levi 等のジャーナリスト達が日刊紙、週刊誌でペンの力を競っていた。

Enzo Biagi, Michele Santoro, Giovanni Minoli はTVのトークショウで素晴らしい活躍をしていた。あの童顔のビアジ老(「伊人は馬鹿だ」の日本からの言葉は侮辱ではなかったのです、ごめんなさい)は昨年亡くなられたが他の人達は元気に今もショウを担当している。Gad Lernerは非常にバランスの良い人で意見の相違を巧く調整する能力が飛び抜けていた。ミノーリの番組は見ていると画面から彼のツバが飛んできそうな気配、いつも激しく訴えていた、今でも。

イタリア人は人の言う事を聞かないと言うか勝手にしゃべるので大変苦労する、どなった方が勝ち、てな具合である。

Indro Montanelli, Primo Levi は巨人の星、二人ともジャーナリストと言うより作家で大分高齢(現在は共に故人)。レヴィ氏の自殺は何より残念、あまりにも無念なので独りで勝手に他殺では、、と思いこんでいる。

Licia Colo は子供達に相変わらず人気がある、今はすっかり成熟した女性になった。

これからこのプロ達のお話をお聞かせしましょう

venerdì 11 aprile 2008

AMORE ANIME E FELICITA  愛とアニメ 幸せな日々

1980年代後半 イタリア メディア ウオッチ

大人の世界(日刊紙より)
「日本は世界一犯罪が少ない、強盗や殺人事件は滅多に起きない、先日の事件は駅で老人と若者が足をふんだ、いや踏まないと殴り合いの喧嘩が起きた、これが主なニュースである、先進国では考えられない治安の良さである。一方米国は、、」
「アメリカの経済政策、第二次世界大戦では米国は戦争に勝った、しかし今.日本は平和での勝利国となり米国は経済戦争で日本に大敗している」
「米国内に日本企業との提携関係を開拓して欲しいと勧誘の為に州事務所を日本にオープンして現地で嘆願している、、伊はもっと、」
「日本は経済面はジャイアントだが政治については小人であると言うのは良く知られている、米国の軍隊巨人より小人を選びたい」
「外交面はひどくさえない、、ガラスの館(国連)でも力は無い、、なのに人は毎日何か日本人が作ったものを使っている」

(後に湾岸危機が始まり、ブッシュから暗黙に「米国か日本かどっちか選べ」と迫られてどんなにイタリアの政治家や国民は悲しんだか、彼らにはそれから想像を絶する苦悩が待っていた)

子供の世界
幼児、子供、若者達はすでに20年前から日本で放映されたアニメはほとんどイタリアのTVでも見る事が出来た、特にテーマソングもイタリア語で作成したので大人気、当時既に300本以上放送されていた。毎日何処かのTV局で朝から夕方まで何かの日本アニメが放映されていた。Valeri ManeraのプロデュースでLicia Coloが紹介する子供人気番組「BIM BUM BAM」を中心に ハイジから始まりCandy Candy、マジンガー、タイガーマスク、巨人の星、銀河鉄道999、ハーロック、ベルサイユのバラ、ルパン3世、北斗の拳他にも、てんとう虫の歌、つりきち三平、マコちゃん、日本昔話、一休さん等々きりがない。と言う事は日本を非常に好きな少年少女や青年が育っていた土壌がすでに出来上がっていた。

Hide
http://www.youtube.com/watch?v=RI3qPvtYnv0&feature=related

Il Grande Mazinga
http://www.youtube.com/watch?v=awuIl8GN7g8&feature=related

老人の世界
昔のよしみ(三国同盟はあったが、一般の人は日本人を見た事がなかった)だろうか、年配の人達は日本が戦争に(第二次世界大戦の方)負けて原爆を落とされた事を非常に悲しみ日本については何時も同情的に解釈してくれていた。有名なジャーナリストは「カミカゼ」と言う言葉を「テロリスト行為と同じに使うべきでない」とか、もっとも芸者のでる映画が好きな年代でもあった。太平洋戦争のドキュメンタリーでは「米国は良く戦いました、でも敵である日本側も非常に立派に戦い抜きましたねェ」と一言つけ加えるのを忘れなかった。真夏のTVは街に残る老人達用にサムライドラマがサービスされた。戦争中(もち湾岸戦争の方)Milanoの公園を歩いていたらベンチに座っていたおじいさんが突然「あんたが一番美しい」と怒鳴ってくれた、ありがたい事だ。

1980年前半はここに書く必要はないくらい日本の経済成長を褒めちぎり「早いスピード」「奇跡だ」の形容詞又「JAPAN AS N°1」等の出版物「日本型が大成功モデルか?」「日本に見習う」そんな言葉がニュースには溢れていた。フィレンツェ駅のホームで列車を待っていると「日本の貿易黒字が悪いッ」と文句をつけてくる全く知らない男性がいた、よっぽど腹がたつ事でもあったのだろう。(内心日本も早く2桁赤字くらいにならないかな、と待ちわびたのが懐かしい。ところで今せっかく赤字になった、何故もっと宣伝しないのかな?)TVでは「女子プロレスリング」「子ずれ狼」が人気で、毎朝会社に行く前に寄ったカフェのシニョーラは昨日見たサムライの感想を話すのが日課「昨日の見たか? 私は泣けた涙が止まらなかったよ、あーかわいそうな子 だいごろう、、」と、私は「Siそうだ Siそうだ」うなずきながらカプチィーノを飲む毎日だった。

今考えると幸せな時代だった。

lunedì 7 aprile 2008

GENTE DI MARE  海の人


Ci sono le musiche che danno la forza e il coraggio, ecco questa è una di quella..... noi siamo dall' isola nel pacifico lontano..
loro cantano lontano dalla penisola bellissima..

Umberto TOZZI  &  RAF
Gente di Mare (海の人)

俺たちは草原の住人だが。。 髪には海の塩がついている
あまりにも自由がありすぎると思える海はいつも怖い

Gente di mare che se ne va, dove gli pare dove non sa
海の人(船乗り)が立ち去る、何処に行くかは分かっていない

gente che muore di nostalgia, ma quando torna dopo un giorno
その人はノスタルジーで死にそう でも帰ってきても1日たつと
muore per la voglia di andare via
死ぬほど でかけたくなる      (略)

Al di la del mare c'è qualcuno che, c'è qualcuno che non sa di te
あの海の彼方には誰かがいる、その誰かは おまえの事には気がつかない (略、仮訳) 


これも胸をつまらせる二重層の歌でしたラフとのコンビもピッタリ、是非聴いてほしい歌、きっと元気がでるでしょう。湾岸戦争中にも歌われ 去ってはもどる波の様。この歌詞でしばし悲しい現実を忘れる事が出来ました。日本は最初の第一次湾岸戦争には出なかったので(これはとても良い事だったのです、周りから尊敬されました、、、が、その後ギグしゃく)TVではCHI NON C'E「いない人」とか「いなかった人」とか言われからかわれていました。TVCMにまでこれが使用され、それも日本の一流メーカーが、広報担当に電話しましたが、流行語にまでなって、、続きました。湾岸戦争はCM界も引きずり込みパラレルに、そうCM/SPOTとに、、

現実の戦争とが入り乱れた広報大戦争が始まりました。

domenica 6 aprile 2008

DIAMOND HEAD - DIED BOSS      綱引きの終り

SCOMPARSA UNA STELLA スターが一つ消える

今TVをつけっぱなしでいたらEURONEWSでハリウッド俳優CHARLTON HESTON死去のニュースが映っていた84歳とか。あ〜懐かしい俳優ですね。
「WWII後、米国映画の日本への多量流し込みは親米工作の一つ」これは悪くとり過ぎ、当たり前の事で当時の米外交広報官が優秀だったに過ぎない、もっともいまだに優秀で役者が一枚上。現在は仏に米映画をどんどん流し込んでいる。

来日したヘストンに「日本の印象は?」と愚問。あの頃来日した俳優には必ずこの質問をしていた、人の良い俳優は「大変美しい国です」とか言ってたが、まさか「きったなくって電線がいっぱい」と本当の事は言えない。外交辞令をいまだ信じるめずらしい国。

昔雑誌「映画の友」に往年の俳優達がグラビアにのっていた。その影響でヘストンの映画も結構見ている、小さい時にベンハーのすごい宣伝に騙されて姉と映画館にまで行った、その後はTVのみ。中でもダイアモンドヘッドは好きでDVDにしていまだに持っている。
「猿の惑星」のラストシーン、自由の女神が砂浜に埋もれている、、やはり悪い事工作していると悪い結果も早く想定出来るんだなあ、と感心した。 自分の過去を振り返ると「なるほどなー」と思い当たる時代の工作ばかり。イタリアでは米国が「テロが某国で起きそうだ」と危険発生情報を流すと、「彼が自分で言うのだから起きるのが当たり前」とか言われる始末。

へストン氏最近はマイケルムアの告発ドキュメンタリーで、レアルな悪役、もっとも昔は銃砲所持批判もした様子、映画も運命的な米国のシンボル役で活躍。現在はその座を名優ジーンハックマンやニコルソンが引き継いでいるが、これがもう少し傲慢でないシンボル役になってくれると世界は随分助かる。

ヘストンが演じた役「米国」という国は色々問題を起こし米国民はその犠牲で可哀そう、もう少し良い道(歴史)を歩いてくれる様に怖がらずに誘導する先生が必要な様です。それが本当の友情でしょう。気はいいのだが早とっちりでバイオレンスな悪ガキ時代が懐かしい。「ほれっ強盗だー」と助けるつもりでひとの家に入り込みその家の人達までも殺してしまう癖がなかなか直らない。

他人の都合はおかまいなし、、「奢れる者も久しからず」と言う事を会得出来る年月を持たない国なので、、歴史に美しく消え去る術は日本もアドバイス出来るはず。かの素晴らしい働きを残した歴代の忍者達が美しく歴史から消え今は小説、映画、ゲーム等に返り咲いて活躍している。現在の諜報員や諸々の組織もボロクソに批判され、これ以上醜悪になる前に歴史の中に埋没するべきでは。

そのあとは世界の人々にとって平和な本当の意味でそれぞれの文明にとって非常に面白い時代が始まる。

巨大軍隊、巨大諜報諸機関、巨大金融組織のロボット政治家の代わりに世界中の多量の小さい個人 専門学者、医者、教授、大学生、警察官、消防士、芸術家、ジャーナリスト 職人 商人等ただの各国市民が連帯して世界をひっぱって行く。それがこれからの新しい世界の姿、その為にニューテクノロジーをフルに活用したい。

何故なら忍者が活躍していた時代は「もの言えば唇寒し」で自由は無し、戦国大名や将軍の支配する一般の人々にとってはありがたくない時代だった。 

sabato 5 aprile 2008

PERCHE LO FAI 何故それをする

Marco Masini

マルコ マジィーニが絶叫して歌う、同じように絶望している女の子への助け舟

Perchè lo fai    (何故 それをする

Con questa pioggia nei capelli perchè lo fai
こんな雨を髪の毛に 何故それをする
con questi occhi un po fanciulli e un po marina
その瞳 少し海の様で 少し幼児の様な 
。。。。

perchè lo fai tu che sei rosa di giardino dentro di me
何故それをする おまえは俺の中にある庭のバラなのに
come un gattino sopra un tetto di guai
災難中の屋根の上の子猫みたい
dimmi perchè, perchè lo fai
言ってくれ 何故それをする

Perchè lo fai non rispondermi se non vuoi
何故それをする 答えたくなければそれでいい
pero lo sai che io vedo con gli occhi tuoi
でも 俺はおまえと同じ目で見えるんだよ
e tu se vuoi puoi nasconderti dentro di me
もしよければ俺の中に隠れてていいんだよ
。。
Perchè lo fai disperata ragazza mia
何故それをする 絶望した俺の女の子
perchè sdai come un angelo in agonia
何故 断末魔の天使の様に

何故それをする

(略) (自己流仮訳)

dailymotionで1990年RAIの物が素敵です


これは流行りましたねェ、毎日何処からか流れていました。勿論、戦争中も(まあ今も続いているのですが、、)この歌詞が暗示する様に日本で自殺者が多いと言うニュースはイタリアやフランスにも届いてました。今では年齢層が小学生にまで降りて、、。特に仏は心理学、哲学や社会学と各学者も多いのにBretagneブルターニユ地方や青年に多発で問題は深刻です。北欧も含んで何故に日本は積極的にフランス等に相談しないのでしょうか、「助けて」と叫べばいいのに、経済面で少し日本を苛立たしく思っていたのでよけい真剣に一緒に考えてくれるでしょう。イタリアも今はひとりぼっちになった国(もとの恋人)を結構気にしているし、若者のドローガ(麻薬)問題も抱えて同じ様な悩み。

哀しいけど良い歌詞で遠い国の若い人々をも憂いイタリア中が泣きました。



mercoledì 2 aprile 2008

SAYONARA PAPA WOJTYLA 愛のさけび

Arrivederci nostro grande amore PAPA GIOVANNI PAOLO II
今日は4月2日、3年前のこの日は私の心の想い人カロル ウオィティワの命日、体調は数日前から弱っていた、ヨハキンナヴァーロ氏の病状発表中は毎日毎日死なないで、、と祈ったが、だめだった 。生きていた時は毎週日曜日には彼の勇気ずける声が木霊したっけ、世界中に「怖がらないで、恐れ事はない!」違う日に「子供達を殺すんじゃない!」雨の後「ほらっお日様はもどるでしょう」別の日「もう戦争は二度とするな!」私のそして世界中の人の心のささえ、数々の彼の声が地球上に鳴り響いたなー。湾岸戦争では彼とサダム対ブッシュ親子そして日本とも、三つ巴の闘争、でもこの物語は又別の日に。寺院の広場に来た人々は赤と白のしまの国旗を背中につけて「パパが好きな色だから」と、、そう彼の母国ポーランドの旗なんだけど、彼が好きで心配しつづけた国の旗にも同じ色が、、多くの人々はその事も承知していた、本当に世界中の沢山の人々が、、でも残念、教皇ヨハネスパウルス2世が愛して守った国の本人達はその事を誰ひとり知らずにいたみたい。あまりにもひどいと世界中から抗議のメールが送信された、官僚は「何故か外務省のHPサーバーに多量のウィルスが送られ故障した」とか。私は無宗教だけどこのジョヴァンニパオロ2世だけは特別な人で大好きです。もしあの葬儀に美智子皇后が出席されていたら最重要の特別待遇でかつ歴史的に深い関係の順序なので世界の貴賓席最前列に列席されたはず。逆に「Giovanni Paolo II の足元にもひざまずく資格の無い男(ブッシュ親子大統領)がいる」とクッション用にクリントン元大統領を連れて葬儀に出席したにもかかわらずメディアから手厳しく批判されていた。いつかローマに寄った時は墓参りにいこうと思っている。もしもあなたがROMAを訪ねたらサンピエトロ寺院の地下にお墓があるのでどうぞお参りを、、このヴァティカン法王の愛を知らずにいたら、なにより心のこり。

PAPA今までの様に天上から我々を守って下さい、法王が愛された国はまだまだあなたの御加護が必要な様です。
              合掌

martedì 1 aprile 2008

METAPHOR JAPANESE IMAGE 日本の メタファーイメージ

      今日は4月1日エープリルフールなのでおかしな話を  
          Metaphor image variations

古くシルクロードから口伝えで東西に流れてきたと思えるメタフォールイメージもあり色々な人が遠方から行き来してきた事を考えると自然現象だ。音楽ではモーツアルトなど好奇心の強さから「東方の王子」とかを思い描いた事は確か。思想、哲学には越境した勇気ある高僧などが教えを交換したと思えるふしがあちこち、アート等きりがないのでこちらは専門家にまかせ ここでは簡単にいこう。

太陽 日の本 日の出 
モネの絵画や古典シェクスピアの「ロメオとジュリエット」。昔「ソラリス」(旧版)なんて良い映画があったなぁ〜。「日はまた昇る」どれでも。

大人になれない青年 閉鎖的な人 
ルイマル監督の「鬼火」なんか良い例。

よちよち歩く赤ん坊 おしゃぶり虐待される幼児 夫の暴力を黙る妻 
仏映画のアメリカ女に追い回されて殺される小年の話「赤い血」ビノシュが可愛かったなーそれに漫画 CORTO MALTESEを描いたUgo Prattまでが出演して、彼と一緒に石版を刷ったのが思い出される。

エイリアン ゴジラ仲間 爬虫類 出っ歯など歯並が汚い人 眼鏡の人 
主にアメリカがふりまき,まるで日本人をカリカチュアすれば金儲け保証済の如く、今だにワンパターンでしょうこりなくHollywood から量産されてくる いいかげんにしてくれ。

蝶々  猫  金魚 天使 働き蜂 たこ ひよこ 
ハリウッドの日系配給会社は何故是正用に良い映画を日本人のために作って世界に配給してくれないのかな(例えばアニメ「灰羽連盟 HAIBANE-RENMEI」なんか劇場用にして、、あ〜)何の為に買収。戦後(WWII)に赤い金魚作戦とかあったが何かな。猫 金魚 蜂 ひよこ ばかり映画出演、本物の日本の女優や可愛いおねいちゃんは何故出ない。

アリ シロアリ 
昔ドイツのある政党(通称ナチス)がユダヤ人に押し付けたメス豚、ウジ虫、ネズミなど今は日本人にまわしてくる。アリや家を壊す白アリも、あのクレソン大臣を思い出すが。仏のド田舎の村などは掲示「シロアリが住む不動産やそれらが近くにきたら直ぐ役場に知らすべし」とか、表向きは不動産保護の衛生上問題(こっちは内心ユダヤ人用かな日本人の自分用かなと悩む) 

マカコ等猿類 キングコング&エンパイアーステートビルディング
ヒットラーは日本人を「黄色い猿」と書き、マレーネデートリッヒも「やっと猿がパールハーバーを攻撃してくれた」と言った。

ロボット トランスフォルマーカー E.T
そのものずばり、まあちょっとは良くなっているのかな

イエロー        
これも多い、確かクリントン(夫)は大統領の時、記者会見は好んで黄色の安楽椅子に座っていた。湾岸戦争中は沢山の政治家、TV解説者、著名人等がカラー紛争として利用した。(注:ホロコースト時のダヴィデの星も黄色だが色調が少し違う)、湾岸戦争初期はこのカラーイメージ戦争もパラレルにパチパチ火を噴いていた。ドイツのゲンシャー外務大臣が対談した時に黄色の毛のチョッキかセーターを着ていた、相手のベーカー(ブッシュ父大統領右腕,国務長官)は非常に不愉快そうな顔をしていた、なにせ日本を陥れる工作ダミー戦争真最中なのでよけい腹立ったのだろう。湾岸戦争は日本を崩壊し虚弱にさせ笑い者にする為の腹いせ的な大変長期に工作された面を持つ戦略だったと確認出来る。(邪悪な事はいつかばれる)